第4話 潮時かもしれない

「ブラックウッド家がこれから来るって」

 その日、早朝から駆け込んできたのはリリーだった。ブラックウッド家、その名を聞いて背筋が凍るような思いだった。

「すぐに村長の家に」と言われ慌てて支度した。すぐにでもアーロに知らせたかったが、これから手紙を書いたとしても間に合うはずがない。かといってリリーに頼むわけにもいかなかった。

 とにかくすぐ、村長の家に向かわなければならない。おそらく、私に残されている時間はもう少ないのだから。

「驚きましたよ、まさか結婚の話を先延ばしにするなんて」

 村長の家にはすでに、ブラックウッド家の次男、リチャードが到着していた。私を見るや否、言い回しこそはオブラートでも、棘のある言葉を投げてきた。

「申し訳ありません」

 頭を下げても、リチャード気は治まらないらしい。これ見よがしに貧乏ゆすりを続けている。これまで、彼の存在を忘れたわけではなかった。むしろ真っ先にどうにかすべきだと思っていたものの、ずるずると伸ばしてしまったのは事実だ。

「僕が寛大だから時間を設けていることを忘れてもらっては困るねえ。これでも僕は忙しいんだ。それでも君のためにどれだけの労力を割いていると思っているのか」

 リチャードの冷たい視線が私を射抜いた。言葉には笑みが浮かんでいたが、その瞳の奥には苛立ちが見え隠れしていた。彼がここまで怒る理由が分からないわけではないが、私にはどうすることもできない。

「本当に、申し訳ありません。ただ、私には……」

 必死に言葉を絞り出そうとするが、うまく説明できる自信はなかった。リチャードの家柄や地位を考えると、彼の機嫌を損ねることがどれほどのリスクを伴うかは理解している。それでも、アーロとの偽りの婚約が頭をよぎると、自然と彼を守りたい気持ちが勝ってしまう。

「ただでさえブラックウッド家が君に興味を持っているのは、君にとって一生に一度のチャンスだろう? それなのに僕を拒むなんて、考え違いもいいところだよ」

 リチャードは肩をすくめ、ため息をついた。

「しかも、君には婚約者がいるそうじゃないか。最近では僕への当てつけのように仲良くしていると聞くよ」

「それは……」

「言ったはずだ、僕は寛大だと。そんなことでは怒りはしない。けれど、賢明な選択をしてほしいとは思っているんだ」

 リチャードの言葉に何も返せず、私は俯いたまま肩を震わせた。なぜ私なのだろう。顔を合わせたこともない。それでも、どこかで顔を知られるタイミングがあったのかもしれない。リチャードは私を見てすぐに、オフィーリアだと分かったのだから。

 そのとき、重い足音が玄関先から響いてきた。顔を上げると、アーロがそこに立っていた。鋭い視線でリチャードを見つめる彼の姿は、まるで冷たい風が吹き込んできたかのように、その場の空気を一変させた。

「話はそれくらいにしてもらえませんか」

 その声には威厳があり、どこか冷たさが含まれていた。リチャードも一瞬驚いた表情を見せたが、すぐににやりと笑みを浮かべた。

「これは、騎士団長殿。お久しぶりですな。まさか、あなたがここにいるとは」

「オフィーリアに無礼な言動をとる者を見過ごすことはできないものですから」

 リチャードは一瞬、アーロの言葉に反応を見せたが、次の瞬間には顔を真っ赤にして怒りを露わにした。

「無礼? 僕が? それを言うならそちらでしょう。婚約者だかなにか知らないが、僕との縁談が決まっている以上は身を引くべきではないのかな」

「縁談……それは一方的なものでも、そう呼ぶのですね。勉強になります」

 アーロは微動だにせず、冷静なまなざしでリチャードを見据えた。しかしリチャードも黙ってはいない。

「どういう意味だ?」

 リチャードの声はさらに険しくなった。彼はアーロに詰め寄り、拳を握りしめたまま睨みつける。

「僕はブラックウッド家の次男だ。僕の意志が一方的だと言いたいのか?」

 アーロは落ち着いた表情のまま、口元に微笑を浮かべた。

「いいえ、立場を理解した上での発言です。しかし、結婚とはひとりでするものでもないでしょう。彼女が望まない縁談を押し付けることは、愛とは言えないのではないですか」

 その言葉にリチャードの目が一瞬だけ揺らいだが、すぐに怒りでかき消されたように見えた。

「愛だと? 君がそれを口にするとは滑稽だな。君が本当にオフィーリアのことを考えているなら、身を引くべきだ。君の存在が彼女を傷つけることになるのだから」

「オフィーリアのために身を引くことが彼女の幸せに繋がるなら、私は喜んでそうするでしょう」

 しかし、とアーロは冷たく言った。

「私も、彼女を愛しています。そのことは理解してもらいたものです」

 リチャードは顔を歪め、嫌悪感をあらわにした。

「君の言うことなど、誰も信じはしない。結局のところ、君はただの騎士に過ぎないのだから。僕は貴族だ。僕の言葉のほうが重みがあるのは当然だ」

「そうかもしれません。ですが、オフィーリアにとって、何が重要なのかを決めるのは彼女自身です。私の言葉が軽くても、彼女の心には届くと信じています」

 リチャードの顔はますます赤くなり、彼は怒りのあまり言葉を失ったようだった。アーロの冷静さと揺るぎない態度に対して、何も言い返すことができないように見える。彼は苛立ちを抑えきれず、舌打ちをしてその場を立ち去ろうとした。

「覚えておけ、アーロ」去り際、リチャードは振り返りざまに低く言った。

「このままでは済まさない。僕の名誉を傷つけることがどういうことか、いずれ思い知ることになるだろう」

 アーロはその言葉に対して何も反応せず、ただ静かにリチャードの背中を見送った。彼が完全に視界から消えると、アーロはため息をついて私のほうを振り返った。その表情には一瞬だけ疲れが見えたが、すぐに優しさに変わった。

「嫌な思いをさせてしまったね」

「いえ、助けていただいて……ありがとうございました」

「俺はなにも」

 それから、今までを見守っていた村長やリリーにも同様に詫びを入れた。迷惑をかけてしまったことを私も同じく頭を下げながら「あと少しだけ時間をください」と口にした。

 もう時間などないことを分かっている。これまではリチャードと結婚しなくとも、村が豊かになる方法を考えていた。けれど、リチャードの態度を見て察した。このままでは、私以外の誰かが傷つくことになってしまう。そしてアーロにも、迷惑をかけてしまうだろう。

「婚約者のフリは、もう終わりにしましょう」

 家までの帰り道、言い出せなかったことをアーロに告げた。

静かな夜道に、風が木々の葉を揺らす音だけが響いている。その音の中で、アーロが短く息を吸ったのが気配で分かった。

「……リチャードのことなら、気にする必要はない」

「嘘は、よくなかったんです」

 周囲を欺くために、そして一番は、私自身の気持ちを優先させてしまった。

 結婚をしたくないと言った私に、アーロは今日まで本当に親身になって助けてくれていた。けれど、これ以上はもう、悪足搔きをしてはいけない。

 そのとき、砂利が擦れるような音がすぐ近くから聞こえた。アーロも同じだったのか、咄嗟に私を抱き寄せては周囲を警戒している。

「……もしかして、誰かに聞かれたのでしょうか」

「今日のところはここまでにしよう。婚約の期間はまだ続けてもいいと思うんだ」

 さ、お入り、とアーロは家に入るよう私の背中をそっと押した。

「警備の者をつけよう。本当は俺がついていたいけど、よからぬ噂を流されてしまうのも避けたいからね」


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