第2話 溺愛させてもらおう

 翌朝、私は村長の家のドアを叩いた。木製の重厚なドアの向こうから「入っておいで」という村長の落ち着いた声が聞こえる。深呼吸を一つし、手でドアノブを回して部屋に入った。

 村長は大きくて古いデスクに座り、何枚かの書類を整理していたが、オフィーリアの姿を見て微笑んだ。

「オフィーリア、昨日はすまなかった。いきなり結婚の話を持ち出して」

「いえ……実はそのことでお話があるんです」

 何度も練習を重ねた。ここで失敗してしまえば、多くの人に迷惑をかけてしまうだろう。協力してくれたアーロにも申し訳ない。

「……先日、村長さんからお話をいただいた結婚の件ですが、私には……婚約者がいるんです」

 村長の表情が一瞬硬直し、驚いたように眉を上げた。

「婚約者……オフィーリア、そんな話はこれまで聞いたことがないが」

「も、申し訳ありません。昨日は気が動転してしまい打ち明けることができなかったのです」

 もっと慎重に言葉を重ねるべきだとはわかっていても、これが真実ではないという後ろめたさもあってか、どうしてもうまく言葉が出てこない。

「ですから……婚約者がいるというのに、ほかの男性と結婚することはできないんです。その……もう少し、婚約者と関係を、整理する時間をいただけませんか」

 とにかく、村を救うための手立てを見つけるまでは、時間を稼がなければならない。

 村長はしばらく黙り込み、内容を噛みしめている様子だった。

 やはり反対されてしまうだろうか。時間はないと言っていた。

 やがて彼は深くため息をつき、頷いた。

「そうか、それは……オフィーリアが言うように時間が必要になるな」

「あの、村長さん。私がもっと早くこのことを話していれば、誤解もなく済んだのに」

 村長は穏やかに微笑んで首を振った。

「いや、君が謝ることはないよ。君にも事情があるのだから。ただ、ブラックウッド家にも、そして村の人たちには君が婚約していることを伝えなければならない。それは理解してもらえるだろうか」

「はい、そうしていただいて構いません」

 ごめんなさい、村長さん。騙すことになってしまって。

 それでも必ず、この村が豊かになれるような方法を見つけます。

 口にはできないものの、心の中でそう返した。

「オフィーリア」

 村長の家からの帰り道。

 なぜかそこにはアーロがいた。

「えっ、どうしてアーロがここにいるのです」

「話をしてきたのだろう。心配だったんだ。本当は俺も付き添うべきだったのに」

「いえ、それを断ったのは私ですから」

 アーロについてきてもらっては、きっと頼ってしまうと思った。ただでさえ協力をしてもらっているというのに、自分でどうにかできる場面でもアーロ頼りになってしまうことは避けたかった。

「村長とは話ができた?」

「はい、時間をいただけるそうです。ブラックウッド家と村の人たちにも話をすると」

「……そうか、なら人目を気にすることはないな」

「え?」

 気のせいだっただろうか。なにか聞こえた気がしたが、アーロは私と目が合うと、にこりと微笑んだ。

「今日はもう仕事が休みなんだ。よかったら、デートでもしないか」

「デ、デートですか?」

「婚約者であることをアピールしないと」

 それもそうか。

 偽りであることがバレないように、それなりに工夫することは大切だ。

「どこか行きたいところはあるか?」

「い、いえ。アーロが行きたいところに」

「そうか……なら、まずはお披露目に相応しい場所に行こう」

 そうして、アーロが差し出したのは右腕だった。

「これは……?」

「婚約者らしく、腕を組んで歩いてみるのもいいかと思ってね」

 一瞬戸惑ったが、アーロの真剣な瞳を見て、その気持ちを察した。周囲の視線を気にして緊張している気持ちを少しでも安心させてくれているのかも。頬が熱くなるのを感じながら、彼の右腕にそっと手を添えた。

「こう、でしょうか……?」

 しかしアーロからの返答はない。じっと私が手を添えた場所を見つめている。なにか間違えたのだろうか。異性と腕を組むなんて初めてだから粗相をしでかしてしまったのか。

「あ、あの、アーロ。やはり腕を組むのは……」

 はっとしたような顔つきをしたアーロは、すぐにいつもの笑みを浮かべた。

「すまない。少し考えごとをしていた」

「大丈夫なんですか?」

「問題ないよ。じゃあ行こうか」

 彼の温かい声が耳に届き、肩の力を抜いた。アーロと腕を組んで歩くのは、初めての経験だったが、彼の温もりが伝わってくる。

 道を進む度に、村の人たちは注目していた。彼らの視線が集中し、ささやき声があちこちで聞こえてくる。

「見て、オフィーリアさんの婚約者らしいわよ」

「なんて素敵なの! オフィーリアさんは幸せね」

「本当にお似合いの二人だわ」

 恥ずかしさを隠しきれず、うつむき加減になったが、アーロの穏やかな笑顔を見ると、その恥ずかしさもどこか薄れていくようだった。彼の存在が、まるで自分の世界を明るく照らしてくれるようだった。

 アーロは腕を組んだまま、村の中心広場へと向かった。そこには大きな噴水があり、水しぶきが陽の光を受けて輝いていた。広場はいつもにぎわっていて、特に今日は市場の日で、色とりどりの花や新鮮な果物が並び、香りが漂っている。

 村人たちはもうすでに村長から話を聞いているらしい。疑惑を向ける目もあったが、アーロは堂々とした佇まいを見せていた。

「懐かしいな、ここにも一度来たことがある」

 アーロは楽しそうに笑いながら言った。その笑顔は村の女性たちの心をさらにときめかせ、囁き合う声が耳に入ってきた。

「あんなかっこいい人、見たことがないわ」

 婚約者として見てもらえるか不安だったが、今のところ心配はしなくてもいいらしい。

 けれどここまで注目されてしまうと、アーロの腕に寄り添うことが恥ずかしくなってきた。それなのに、アーロはまるで気にしていないようで、しっかりと私の手を握り続けていた。

「オフィーリア、この美味しそうな匂いはどこからするものなのかな」

「あ……それでしたら、近くにクロワッサンが有名なお店があるんです」

「へえ、クロワッサンか。いいね、食べてみたい」

 どことなく少年のような顔つきになり、思わず笑みがこぼれた。「案内しますよ」と言えば、されに子どもっぽい笑顔で「ありがとう」とアーロが返す。

 向かったのは村一番のパン屋で、ふわふわのクロワッサン以外にも、新鮮なパンが並べられ、香ばしい匂いが漂っている。

 二人分のクロワッサンを買うと、近くのベンチに座った。

「お金を……」

「いいんだ。婚約者としてかっこつけたかっただけだから」

 もう十分かっこいいというのに、さらにかっこよくなられては困ってしまう。

 誤魔化すようにクロワッサンにかぶりつくと、サクサクとした食感とバターの風味が口の中に広がった。アーロも満足したようで「美味しい」と何度か口にしていた。

「広場で必要なものはない?」

 食べ終えるとアーロが聞いた。

「そうですね……今度で大丈夫です。量も多くなりますし」

 買い物ぐらいならひとりの時にでもできる。今は婚約者として村の人たちに知ってもらうことが目的なのだから。

「だったら、付き合ってもいいかな? 俺でよければ荷物持ちぐらいはできるよ」

「そ、そんな……大丈夫です。あの、本当に些細なものなので」

「オフィーリアがどんなものを買うのか知りたいんだよ。結婚に向けていろいろと揃えなければならないし」

 結婚。ううん、これはあくまで偽装工作であって、ただ周囲の人に婚約していると思ってもらうための時間。だから、わざわざ胸が高鳴るようなことは必要ないというのに。

「オフィーリアが奥さんになってくれるのを、俺は楽しみで仕方ないんだ」

 まるでそれが本心だとでも言うように、アーロの演技には真実味があった。

 心から私に協力してくれようとしているのが伝わる。

「……それじゃあ、お願いします」

「うん」

市場の角を曲がり、雑貨店に入ると、生活で必要なものを選び始めた。それは日用品や食料品が詰まった大きな袋で、これをいつもひとりで運ぶものの、正直言ってとても重たい。けれどアーロは袋を手に取り、まるで羽のように軽々と持ち上げた。

「ほかにもある?」

「いえ、これで最後です。あの……本当にありがとうございます」

「僕はオフィーリアの騎士だから、これくらいのことは当然だよ」

 もう十分だ。ここまでしてもらえば、村の人も信じてくれただろう。

 あとはブラックウッド家と結婚をしなくても、この村が豊かになる方法を見つけなければいけない。

 しかし翌朝、家の前に置かれていた小さなブーケを見て時間が止まった。

 もしかしてこれはアーロが……?

 特別な日ではない。それにここは村の中でもいちばん外れに位置する場所。滅多に村人が通ることもない。ましてや、騎士団長である彼が、こんな些細なことのために時間を割くとは考えられないことだっただからここまですることないのに、アーロは花を置いていった。持ち上げると小さなメッセージカードが挟まっていることに気付いた。

『君の笑顔を思い出すたびに、僕の心は温かくなる。アーロ』

 内容までもが、婚約者としての言葉だった。

 花の香りに混じって、アーロの匂いがするような気がした。そっと嗅ぐと、そこに彼がいるように思える。そこまで考えて、冷静になる。これは偽りの関係。私たちは同盟を組んでいるだけのこと。

「お花は、もう大丈夫ですから」

 その二日後。今日も婚約者のフリをするため、村にある丘へと来ていた。広がる草原が見渡せる場所で、遠くに山並みも見える。村の人々が散歩や休息のためによく訪れる場所であり、婚約者として振る舞うにはもってこいの場所だ。爽やかな風が吹き抜け、草の香りが漂っていた。

 アーロに会ってすぐ、家の前に置かれていたブーケがどれだけ嬉しかったかを語り、そして丁寧に礼を告げ、最後に花はもう必要ないということを伝えた。

 彼があそこまですることはない。偽りの婚約なのに、アーロは協力を惜しまない。だからこそいつまでも甘えていてはいけないとも分かっていた。

「迷惑だったかな?」

「そんなことはありません。本当に嬉しかったんです。一度もらえたらそれで」

「俺は、オフィーリアに花を贈りたかった。ただそれだけのことなんだ」

「アーロ……」

「でもこれからは少し控えるとするよ。やりすぎも、かえって信用を失ってしまうかもしれないから」

 そう言われてほっとした。これからはアーロも私に時間を使うことも少なくなるだろう。その間にも村の問題は放置されたままだ。いつまでも婚約者としての時間を持つわけにもいかない。

 けれど、その後も一人で過ごしていると、決まってアーロは何かと理由をつけてやって来るようになった。家の前で庭仕事をしていると、遠くから馬の足音が聞こえ、顔を上げると、そこにはアーロが馬に乗って現れる姿があった。

 彼はゆっくりと馬を止め、オフィーリアに向かって笑みを浮かべた。

「アーロ? 今日は騎士団の仕事で忙しいはずでは」

「近くの警備をしていたんだ」

アーロは馬から降りると、オフィーリアのそばに歩み寄り、優しく彼女の頬に触れた。

「もしよかったら手伝わせてくれないかな」

「そんな……ただの庭仕事ですから」

しかしアーロは首を振った。

「俺がそうしたい気分なんだよ」

 そう言うと、アーロは私の手から庭仕事の道具を取り上げ、草を刈り始めた。彼の動きは驚くほど手際がよく、力強かったが、それでも彼は私が疲れないように気を使いながら作業を進めさえした。

 またあるときは、夜になってアーロが訊ねてくることもあった。

 その日、窓の外を見て、ふとため息をついていた。夜の闇が村を包み込み、ただ静かな月明かりが辺りを照らしているだけだった。子どもの頃、この村では毎年ランタン祭りが行われていたが、今ではもう長い間行われていない。ランタンが灯る夜空の光景を懐かしく思い出していた。

 そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。こんな時間に誰だろう。不審に思いながらもドアを開けると、そこには笑顔のアーロが立っていた。

「アーロ!」

 彼は小さなランタンを差し出した。

「特別な夜を用意したんだけど、一緒に過ごしてくれないか」

 アーロについていくと、そこには、数え切れないほどの小さなランタンが吊り下げられていた。庭全体が、優しい光に包まれ、まるで星空の中にいるかのようだった。

「これ全部、アーロが用意してくれたんですか?」

「昔、君と見たランタン祭りの思い出を少しでも再現したかったんだ」

 子どものころに過ごしたアーロとの時間はとても短い。それでもこのランタン祭りを見たことはハッキリと覚えていた。

「でも──」

 そこまで言いかけて、口を閉じた。

 どうしてここまでやってくれるのですか?

 私とあなたは、ただの偽りの関係なのに。

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