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はあああああ~、好きだ。どうしてオフィーリアはあんなにも愛おしい存在なのだろう。あまりにも美しく、そして儚く綺麗でいる彼女を前に、冷静を保つことがどれだけ難しかったか。理由はどうであれ、婚約者としての地位を手に入れられたところまではよかった。
まだまだ時間が欲しかった。彼女と共に過ごす時間が。
ようやく、彼女に近づくことができたのだ。これまで何度、彼女の前に飛び出したいと思ってきたか。
それでもこの計画を成功させるまでは、決して自分の姿を見せないつもりでいたというのに。
ブラックウッド家からいよいよ動き出したと聞いたのは、ちょうど騎士団長としての役目を終えた直後だった。城内の執務室で鎧を脱ぎ、疲れを癒そうとしていた。そんなとき、騎士団の隊員が控えめにノックをして部屋に入ってきた。
『団長、手紙をお届けに上がりました』
その手紙の中に、オフィーリアの村に監視役として滞在させている者からブラックウッド家の情報を手に入れた。オフィーリアを花嫁にしようとしていることも。
『ブラックウッド家か……』
その名が何を意味するかはよく知っていた。村を救うためにと持ちかけられた話であることも理解している。しかし、だからといってオフィーリアを犠牲にすることなど、許せるはずもなかった。
『団長、いかがされましたか?』
『これからフォードに向かう』
『フォードというと、あの村はずれのですか。しかし、国王との会食が』
『後回しにすればいい。イアンにそう伝えろ』
執務室を出ると、すぐに馬に乗り、フォードへの道を駆け出した。心の中では、様々なシミュレーションを考える。オフィーリアを長いこと見守ってきていたが、顔を合わせるのは十年ぶりだ。果たして俺のこと思い出してくれるだろうか。
これまでにもオフィーリアへの結婚の申し込みは何度かあった。
その度に俺が阻止していたことなど、オフィーリアが知ることはないだろう。
彼女の周りに存在するものを徹底的に調整し、いつか彼女を手にするその日まで、万全を期すつもりでいた。少し計画が早まってしまったが仕方ない。
そうして、偶然の出会いであるかのように偽った。白々しくなかっただろうか。いや、問題はなかったはずだ。
オフィーリアと別れ自室に戻ると、無意識のうちにポケットから革の手袋を取り出していた。その手袋はほんの数時間前、オフィーリアと再会したときに彼女に触れたものである。
その手袋を両手でそっと広げ、まるで壊れやすい宝物を扱うかのように丁寧に指先で撫でた。そこには彼女の柔らかな手の感触がまだ残っている気がしてならなかった。心の奥底に沈んでいた感情が、一瞬にして蘇ってくるのを感じる。
オフィーリアの繊細な指が自分の手に触れた瞬間、胸が高鳴った。それは子供の頃、まだ何も知らなかったあの頃に感じた同じ胸の高鳴りだった。彼女が笑顔を見せたとき、周囲のすべてが光に包まれるような感覚がした。手袋を引き出しにしまった直後、部屋のドアが音もなく開いた。イアンだ。まるで俺の行動を見ていたかのように眉をひそめる。イアンの鋭い目が、引き出しに目をやり、そして俺に戻った。
「なあ、アーロ」皮肉な笑みを浮かべて言う。「お前、そんなものを大事に取っておくなんて、正直言って気味悪いぞ」
彼の瞳には冷たさが感じられず、むしろ深い穏やかさがあった。
「誉め言葉として受け取っておくよ」
イアンはため息をつき、部屋の中を歩きながら肩をすくめた。
「お前が騎士団長としてどれだけ優秀か、俺はよく知っている。だが、そんなお前があのオフィーリアのことになると、まるで別人のようになるとはな」
「彼女は特別だ」
「特別ねぇ」
イアンが鼻で笑った。
「お前は誰よりも理性が強い男だったはずだ。それがこんなに執着するとは、俺には理解できない。しかも手袋なんかに。正直、お前が何を考えているのか、さっぱり分からないよ」
黙ってイアンを見つめる。その瞳の奥には、彼だけが知る感情が秘められている。
「重すぎるよ、お前の愛は」
「俺のオフィーリアへの愛が軽いとでも言いたいのか」
「いや、軽いなんて思ってない。ただ、重すぎるんだよ。まるで岩のようにな」
「足りないぐらいだ」
「お前の愛は相手を縛りつける鎖のように見えるぞ。あの女がその重さに耐えられるとは思えない」
「耐えられるように、これまで計画してきたんじゃないか」
「だから相変わらず重すぎなんだよ、お前のそれは」
「なんとでも言え」
投げやりに近い形で返すと、イアンはふっと笑う。
「怖い怖い、紳士で爽やかな好青年は一体どこにいったんだか」
「ほう」
「お前に付き添っていた若い騎士が言ってたぞ。“別人のように優しかった”ってな」
「……いつもと変わらない」
「いいや、お前は気付いていないかもしれないが、戻ってきてからずっと顔が緩んでるぞ」
からかうように腕を組んで立っているイアンが、呆れたように言った。幼少期からの幼馴染だからか、心の中をすっかり見透かしているようだった。
オフィーリアに対して抱く特別な感情もすぐに見抜いていた。自分の表情を引き締めようと努めたが、どうにもならない。顔が自然とほころんでしまうのだ。
「そんなに好きなら、もう告白でもしたらどうだ? 見てるこっちが恥ずかしくなる」
「婚約はした」
「偽りのだろ。なんで本当に婚約しないんだ」
その通りだ。それは自分だって分かってはいる。それでも今はそのときではない。
「はあ……まったく、あのアーロがここまで執着するなんてな」
「どういう意味だ」
「誰もが知ってる名門家の出身で、見た目も文句なしのイケメン。それに頭も切れる。勉強も剣術も、何をやらせても一番だ。しかも、騎士としての実力は王国でも随一。誰もが認める最強の騎士だってのに……」
イアンはそこで一度言葉を区切り、俺の反応を伺った。
「お前のことをずっと見てきたけどさ。お前はいつだって冷静で、何にも動じない奴だった。どんなに困難な任務でも、誰もが諦めるような状況でも、お前は一人で解決してきた。誰かに頼ったり、ましてや誰かに執着するなんて、今まで決してなかったはずだ」
「俺をなんだと思ってるんだ」
「見たままを言ってるんだよ。周囲からも冷酷だと恐れられるあのアーロが、ひとりの女のことになると、まるで別人みたいだ」
「別人か」
「これまでお前がどれほどの求婚を受けてきたかもよく知ってる。この国の女のほとんどの憧れの的であるからな。貴族の令嬢からの手紙や贈り物が後を絶たないっていうのに」
「買いかぶり過ぎだ」
「結婚なんて、お前は一生しないんじゃないかって思ってたよ」
立っていることに飽きたのか、イアンは近くにあったソファーに座る。どうやらまだ語り足りないらしい。
「まさか、長年恋心を寄せている女性がいたなんてな」
「知っていたんじゃないか」
「実際に見ないと信じられないだろ。でも、あれだけの求婚を受けてきた男が、全ての女性をかわし続けてきた理由がやっと分かったよ」
確かにその通りだった。心の中には、ずっとオフィーリアが居座っていた。幼い頃から彼女の存在が俺の心を占めていて、どんなに時が経っても、その思いは薄れるどころか、深く、強くなる一方だった。
「オフィーリアだけが、俺の世界を変えるんだ」
だからこそ、この婚約はまさに天からの贈り物のようなものだった。この機会を最大限に活かすつもりだ。
ただの偽の婚約だとしても──。
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