side:アレクサンドル
第32話 本当は忘れられたままなんて苦しい
「出来れば怒らないで聞いてほしいんだけど」
そんな断りを入れられれば、さすがの僕とて多少は身構える。
何せ、つまり、僕が怒りそうな告白をこれからする、ということだろうから。
何だ。
エリザ、一体何を話す気なんだ。
彼女を馬に乗せ、ゆっくりと屋敷に向かいながらも、頭の中はそればかりである。
もしかして、婚約を解消していた時期に不貞を?
もしやあの三人のいずれか――最悪全員とも考えられる。い、いやいやいやいや、彼女が彼らと僕やマーガレット抜きで会っていたはずはないし、そんなわけは……。でも、万が一、ということはある。マーガレットだって四六時中エリザと行動を共にしていたわけではないし、もしかしたら、僕らの目を盗んで文のやり取りをしていたかもしれないし。
だとしても。
その期間は僕らはただの幼馴染みだったわけだし、それを僕が咎める権利なんてない。その期間については不貞でも何でもないのだ。ただ、僕以外の男が彼女の肌に触れたかもしれないという事実に、腸が煮えくり返りそうというだけで。
「……アレク? ねぇ、アレクったら」
気付けば屋敷の門の前にたどり着いていた。主人がこの調子でもきちんと戻って来れるとは、我が愛馬は何と優秀なことか。
僕の胸に凭れているエリザが、こちらを見つめて名を呼んでいる。ぱちりと視線が合えば、バッコン、と自分でも驚くほどに大きく心臓が脈打った。たぶんその衝撃で一瞬心臓が止まったのではなかろうか。
「ちょ、びっくり。いまの何? 内側からノックでもした? どうなってるの、アレクの心臓」
どうやらそれは彼女にも伝わっていたようで、少々恥ずかしい。
「どうなっているかは、僕にも正直わからない。それで、どうした?」
「どうしたもこうしたもないわよ。あれから何だかずっと上の空なんですもの」
「すまない。もしかしてずっと僕に話しかけていただろうか」
「そういうわけじゃないけど。ただ、心ここにあらずって感じだったから、心配で」
「心配をかけてすまなかった。大丈夫だ。僕の心はいつもここにある」
そう言って、彼女の後頭部に手を回して引き寄せ、軽く胸に押し当てる。心は、物事を考える機関である脳の方にあるのだ、と考える者もいるようだが、僕としては、心臓の辺りに宿っているものだと思っている。確かに、物事を考えるのは脳だが、『心』というのは『考える』よりも『感じる』ものだと思うから。
が。
胸の中のエリザが何やら小刻みに震え始めた。振動が胸に伝わって来る。
「……あなたって人は、本当に」
ふるふると身を震わせながら、頬を赤らめ、潤んだ瞳を向けられる。恐らくは何らかの抗議の意を示しているとは思うのだが、あまりにも愛らしすぎて、こちらの心臓が本格的に止まりそうである。
「どうしてこういうことをさらっと出来るの? 信じられない」
「こういうこと、というのは? 僕はまた何か君に対して失礼なことをしてしまっただろうか」
「そういうことじゃないの。もう!」
「エリザ、気分を害したのなら、謝るから。どうか教えてくれ、僕は一体君に何をしてしまったんだ」
「謝るようなことなんてしてないってば。ただ、ちょっと心臓に悪かったってだけ!」
なんと、どうやらエリザもエリザで僕の挙動で心臓を跳ね上がらせているらしい。これは喜んで良いのだろうか。いや、悪い意味かもしれないし、浮かれるのはまだ早いかもしれない。どっちだ。
彼女の言葉の真意を測りかねていると、
「だいたい、昔はこんなこと出来る人じゃなかったのに、急にどうしちゃったのよ」
昔は。
その言葉で、はた、と止まる。
「エリザ、いま」
「え?」
「昔は、って」
「え、あ」
「もしかして、君」
「あ、あの、アレク、その、私――」
馬上であることを忘れているのか、あわあわと慌て出した彼女の身体を「暴れると落ちる。危ない」と抱き締めた。すとん、と落ち着きを取り戻した彼女に問い掛ける。
「記憶が戻ったのか?」
「え、えっと――。そう、なのかしら?」
まだ少し混乱しているような反応だったが、無理もない。
急に思い出したのなら、そういう反応にもなるだろう。
「良かった」
腕にもう少しだけ力を込める。もちろん、彼女を潰してしまわぬよう、加減をして。
「本当に良かった……」
「アレク? 泣いてるの?」
指摘されて気が付く。
どうやら僕は泣いているらしい。
じわりと身体が熱い。ああ、情けない。彼女の前で泣くなんて。まだウチの敷地内で良かったと思うべきか。さすがに領主のこんな姿を民には見せられない。
「僕は、君にとって、思い出してもらうに値する存在だったんだな」
「アレク……?」
「忘れられたままでも、また一から新しい思い出を作れば良いと思っていた。だけど、本当は苦しかったんだ。君に忘れられたままというのは」
だって、君との思い出を僕だけが持っているなんて、寂しすぎる。
幼い頃の記憶なんて、とっくに忘れてしまっているかもしれないけど、それでも何かの拍子に――それこそ、絵や香りのような、些細なきっかけで思い出すかもしれない。けれど、完全に忘れてしまったものはどうにもならない。
君にとっては取るに足らない思い出だったかもしれないけど、僕にとっては宝物だった。
初めて君を見た時のこと。初めてその手を取って温室に連れて行った時のこと。そこでたくさん話をしたこと。泥遊びをして叱られたこと。時間も忘れて本の感想を述べ合ったこと。二人で予想し合った推理小説の犯人やトリック。こっそり忍び込んでつまみ食いした料理長の新作スイーツ。初めて贈った髪飾りを君が着けてくれた時のこと。君が僕のために刺繍入りのハンカチを贈ってくれた時のこと。
そのどれもが、僕には、棺桶の中まで連れて行きたいほどの思い出だというのに、君にとってはそうではなかったのだと突き付けられたような気がして、それが悲しかった。やはり僕だけが君を好きなのかと。その思い出もろとも僕のことだけを忘れてしまうなんて、よほど僕のことが憎かったに違いないと。
泣きながら、どれだけ明瞭に話せたかはわからない。けれど、エリザは、彼女自身も涙をにじませながらうんうんと耳を傾けてくれた。
「すまない。君にプレッシャーをかけたいわけではないんだ。別に僕と同じ気持ちじゃなくたって良い。ルーベルトやケイシーにも言われるんだ、僕は少々重いようで」
親指でぐいっと涙を拭ってそう言うと、彼女はハンカチを取り出して、拭いきれていなかったらしい目の端の雫を拭きとってくれた。
「少々じゃないわよ、もう。激重だわ」
「そうか、すまない」
「謝らないで。悪いなんて言ってない」
「そうか」
「私にとっても宝物よ。あなたとの思い出は」
ハンカチを握り締めて、照れたように笑う。その表情のなんと可憐で愛らしいことか。
「大丈夫、ちゃんと覚えてる。初めて会った時、あなたに自慢の温室を見せてもらった時のことだってちゃんと覚えてる。いけすかないお坊ちゃんだって思ったこともね」
「そうなのか」
「そうよ。私はあなたと違って一目惚れじゃないの」
「一目で恋に落ちてもらえるような人間じゃないのはわかってるから、それはまぁ、別に」
「とか言って、しっかりショック受けてる癖に」
「……そんなことはない」
本当にそんなことはないんだ。
さすがに一目惚れしてもらえるなんて、そんなおこがましいことは考えていない。ただ、いけすかないお坊ちゃんだと思われていたのか、というのがショックだっただけで。
そろそろ中に入らない? という彼女に同意して馬から降ろす。肌寒くなってきたわね、なんて言いながら歩き始めた彼女の背中に向かって、
「じゃあ、一体君はいつ僕のことを好きになってくれたんだ?」
そう問い掛けると。
ふわ、と僕の好きなアッシュブロンドをなびかせて、彼女がこちらを向いた。
「温かいものでも飲みながらで良いかしら。そういうのは、ゆっくり語らうものじゃなくて?」
「そうだな。それに、まだ話すこともあるだろうし」
「話すこと?」
「あるんだろう、僕が怒るかもしれないことが」
「あぁ、あ――……、それならもう良いの。解決したから」
「そうなのか? それなら良いんだが」
良いのだろうか。でもいつの間に解決したのだろう。
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