第6話 婚約を白紙にさせていただきました
「エリザが目を覚ました? 良かった……!」
電話の向こうで声を詰まらせたのは、エリザの御父上、ストーン領男爵であるクォーツ・ストーン氏だ。
「大事な御息女を危険な目に遭わせてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
「いや、アレク君が謝ることではないよ。エリザも一人で歩くなんて迂闊だったと思うし、それに、命に別状はないと聞いていたしね」
幼少時からの付き合いがあるクォーツ男爵は、父のチェス仲間である。父は結局、いまだにただの一度も勝てたことがないらしい。クォーツ男爵が特別強いのか、はたまた父が弱すぎるのか。
「本来であれば愛娘の元に駆けつけるべきなんだが、情けないことに僕もいまちょっと身動きが取れない状態で」
「存じております」
というのも。
現在、クォーツ男爵は療養中の身なのである。大病、というわけではない。賊に襲われた愛娘の元に駆けつけようと自ら馬の手綱を取って勢いよく出発したところ、彼の動揺が馬にも伝わってしまったか制御不能になり、散々に振り回された挙げ句、そこから落ちたのである。
その結果。
全身の打撲と両足の骨折、と。絶対安静の状態だ。
ガーネット夫人は、娘に次いで夫までと、大層心を痛め、倒れてしまった。こちらも要安静である。
「いやぁ、なんていうか、アレク君には本当に迷惑を掛けてしまって」
「いえ、僕は何も」
「何とか君達の結婚式までには歩けるようにするから」
「ご無理なさらず」
「いま無理しないでどうするんだ。愛娘の晴れ姿だぞ。それに、まぁ、君に対してこんなことを言うのは不敬かもしれないが……」
そこで少し間があく。
「何ですか?」
促すようにそう言うと、
「僕は、君の晴れ姿も楽しみにしてるんだ」
「それは……」
「君はいずれこのスートを治める伯爵様だけど、僕は君が小さい時からずっと見ているからね。息子のように思っているんだよ。いやぁ、エリザにも弟妹を作ってやれば良かった」
だから、僕は君達の結婚が本当に楽しみなんだ。
電話口から、しみじみとした言葉が聞こえてきて、胸がぎゅっと締め付けられる。
「あの、その件なんですが、クォーツおじ様」
覚悟を決めて口を開く。
「何だい?」
少しのほほんとした声で、「君からおじ様って呼ばれるのは久しぶりだなぁ」と返って来る。
「エリザとの婚約を白紙にさせていただきました」
「え」
「エリザとの婚約を白紙にさせていただきました」
「いや、聞こえてるよ。え? ええ? な、なん、何で!?」
「エリザのためです。ご理解いただきとうございます」
「エリザのため?」
「エリザは現在、僕のことだけを忘れてしまった状態なのです」
「何だと!? アレク君のことだけを!? そんなことが」
「僕も信じ難いのですが、エリザが嘘を付くとも思えませんし、仮に嘘だとしたら、そうまでして僕とのことをなかったことにしたいのだと」
「ま、まぁ……そうなる、のか……?」
「なので、彼女が僕を忘れたいのなら、僕はその意を汲むまでです」
「そんな。だってこの婚約は君が」
「御息女の貴重な時間を奪ってしまい、誠に申し訳ありません。責任を持って賊を捕まえ、処し、また、彼女の新しいお相手選びにつきましても、出来る限り尽力させていただく所存です」
自分で言ってて悲しくなる。
僕は彼女の貴重な少女時代を丸ごと奪った上、嫁入り前の身体(頭部)に傷まで負わせてしまった大罪人だ。どんな手を使ってでも伯爵位以上の貴族との結婚をセッティングしなければならない。それくらいの償いをしなければならないのだ。
「お父様は、ランスロット伯はなんと」
父からは「愛があれば乗り越えられる!」とは言われたが、エリザの方にその『愛』がないのである。そう説明すると父は「まぁ、そもそも君が言い出した婚約だからな、君に任せる」と電話口で大きくため息をついた後で、「だが、いずれにしても僕は、結局のところハッピーエンドになると信じているよ」と笑った。楽観的な人なのだ。
「僕に任せると仰ってました」
「君はそれで良いのか」
「エリザのためです」
「エリザじゃなく、君だ」
「僕は大丈夫です」
「強がるな。僕は知ってる。君はエリザのことが好きなはずだ」
「好きだからこそ、身を引くのです。僕はエリザにふさわしい男ではなかった」
「アレク君!」
「御息女はしばらくこちらの屋敷に滞在させます。賊を捕まえ、彼女が安心して往来を歩けるようになったら、必ずお返しいたしますので。それでは」
「い、いや、アレ――」
がちゃりと受話器を置き、その場にしゃがみ込む。
僕だって、楽しみにしていた。
エリザのウェディングドレス姿なんて、何度夢に見たかわからない。彼女が望めば、何時間だって何日だってドレス選びに付き合うつもりだったし、当日まで内緒にしたいと言われたら、涙を呑んで我慢するつもりだった。
クォーツ男爵が僕のことを息子のように思ってくれていたのと同様に、僕だって、かなり近しい親戚のおじさんだと思い、幼少時はおじ様と呼び慕っていたのだ。血の繋がりこそあれども、もう何年も顔を合わせていないような親戚達よりもずっとずっと近しい存在だった。
僕もいずれ彼のような、爵位を超えた友人を得て、家族ぐるみの付き合いなんかをして、それで、僕らの子どもがそこの家の子と、なんてことを考えたこともある。僕にとって、幸せな家族のモデルが彼らだったのだ。その家族の中に、僕の隣にはエリザがいた。幸せの形を思い描く時、そこには常に彼女の天真爛漫な笑顔があった。
彼女の、ころころと目まぐるしく変わる表情が好きだ。
上目遣いで、もう、って頬を膨らませられれば、どんなわがままだって聞いてしまいたくなる。
彼女が僕のシャツを引っ張って、「アレク、聞いてる?」って首を傾げるのもたまらなく可愛くて、その度に天に召されるかと思ったほどだ。もちろん、死んでる場合ではないので、迎えに来た天使は斬り捨ててでも生きるつもりだが。あと、話はちゃんと聞いている。この僕がエリザの紡ぐ言葉を聞き逃すはずなんてない。ただちょっと見惚れていただけだ。
瞼を閉じれば、浮かんでくるのは彼女のことばかりだ。
こんなに未練がましくて、果たしてちゃんと彼女の幸せを願えるだろうか。万が一の可能性に縋ってしまわないよう、どうにかこの気持ちを押し込めなくてはならない。
婚約者ではなくても、僕は彼女の幼馴染みなのだ。
たとえ彼女が忘れてしまっても。
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