side:アレクサンドル

第19話 廊下に飾られた絵画と、触れ合う唇

 仕事を終え、一息つく。

 エリザを襲った犯人の手掛かりは一向に掴めない。ここまで来ると、既にそいつは領外へ逃亡したか、他の仲間にでも消されたか、あるいは、自ら命を絶ったのでないか、という可能性も浮上してくる。


 けれど、少なくともこちらが調べた限りでは、領内での不審死の情報はない。いずれも身元も死因もはっきりしている。たださすがに領外への移動については、全てを把握しきれていない。完全に出遅れた。こちらの手落ちだ。


 目頭を押さえ、軽く揉む。目を使いすぎた。もう休もうか。その前に何か飲もうか。


 茶でも淹れようと立ち上がる。

 ケイシーをわざわざ呼びつけることはない。何せ皆が休む時間だ。それくらいのことは僕にも出来る。


 しんと静まり返った廊下を歩く。


 今日は、なんやかんやあったが、良い日ではあった。何せエリザを馬に乗せることが出来たのだから。ずっとそれを願っていた。いつか必ず乗せるのだと、そう思っていたのだ。満ち足りた気持ちで、じわっと胸が温かくなる。


 この廊下の奥を曲がると、僕の好きな絵が飾られている。クローバー領内のサンドールというところにある、僕の誕生を祝って作られたバラ園の絵だ。僕の誕生を祝って――という割には、おいそれと行けないようなところにあるのが解せないが、どうやら、そこでしか咲かないバラらしい。それなら仕方がない。


「アレクはロマンチストなのね」


 僕がその絵を好きだと言った時、エリザはそう言った。そうなのかな、と思った。僕は自分がロマンチストだなんて思えないけど、エリザが言うならそうなんだろう。


「いつかここのバラを君に見せたい。少し遠いところにあるんだけど。僕が必ず連れて行くから。その時は僕が君を馬に乗せていく」


 僕だって実際に見たのは数回だ。だけど、いつ行っても見事なバラなのだ。息を飲むほどに美しいのである。でも、それよりも美しいのは君だよ、って、本当は言いたかった。でもやっぱりそれは僕の喉を通過してくれず、文にしたためることになる。


 その時の僕は既に馬に乗れるようになってはいたけれど、まだ人を乗せる許可は得られていなかった。だから、もう少し待たせることになるけど。それでも、いつか、必ず。


 そう密かに決意していると、

 

「だったら私、この砂漠にも行きたい!」


 エリザがその隣の絵を指さしたのだ。

 

 それはエリザが好きな絵で、クローバー領に隣接するジョーカー領との境目にあるババ砂漠を描いたものだ。砂漠といっても、日の照りつける昼間ではなく、全てが眠る静寂の夜で、ぽかんと浮かぶ大きな月をメインにした絵画である。どちらかといえば、砂漠の絵というより、月の絵なのかもしれない。


 夜の砂漠はとても冷える。日中の灼熱の暑さが嘘のように。だから、荷物は多くなるだろうけれども、その分しっかりと準備しなければならない。大変かもしれないけど、それでもエリザが行きたいというのなら、僕はそれを叶えるだけだ。


 だから。


「必ず行こうって、約束したんだ」


 約束したんだけど。

 

 今日、また馬に乗せたいと言ったら、彼女も乗りたいと言ってくれた。リップサービスだったかもしれないけど。それは果たして、ここまでの遠出でも有効だろうか。


 そんなことを思い出すと、無性にその絵が見たくなってコースを変更する。給湯室は手前の角を曲がってすぐだが、僕は廊下を進み続けた。そうして、一番奥、あの絵画が飾られている廊下に続く角を曲がる。


 と。


 エリザがいた。

 ローブを羽織っているとはいえ、夜着だ。正直目の毒ではある。


 もしかしたら、と期待した。

 もしかしたら記憶が戻ったのかも、と。

 それかあるいは、この絵の記憶だけでも思い出したかもしれない、と。


「エリザ」


 声をかけると、彼女は驚いたように身体を震わせてこちらを振り向いた。驚くのはこっちの方だ。何せ彼女は泣いていたのだから。


 僕が泣かせたのだ。

 彼女を危険に晒したから。

 僕が迂闊だったせいであんな恐ろしい目にあったというのに、未だに彼女に『安心』を与えられないという体たらく。記憶云々を期待している場合ではない。きっと彼女は不安で眠れなくなってしまったのだ。もしかしたらいままでもこうして眠れぬ夜を過ごしていたかもしれないのに。それに、『自称恋人』共との逢瀬もきっと彼女の心身に多大なる負担を与えているに違いない。


 僕は何をしているんだ。


 そう思ったら、身体が動いていた。


 どうしたの? 眠れないの? と、こちらを気遣ってくれる彼女に、君こそどうしたんだと言葉を返し、早足で距離を詰め、彼女の手を取った。


 詫びねばならない。

 許してもらえるかはわからないが。


 けれど、そうではないのだという。

 ではなぜこんな時間に、と思っていると、彼女の目が壁の絵をかすめたことに気がついた。


 あの絵は、と言いながらゆっくりと絵に近付く。


 これは幼い頃の君が好きだった絵だと伝える。反応からしてやはりその記憶もないようだった。もし覚えていたら、あの時の約束を覚えていたらとほんの少しだけ期待していたので、落胆したけど。


 改めて、誘っても良いのだろうか。

 確かに今日、また馬に乗せたいと言った。彼女も了承してくれた。だけど、きっとそれは今日みたいに市場をぐるっと回るとか、その程度のものだろう。ぎりぎり日帰りで行けるサンドールのバラ園はまだしも、ババ砂漠に行くなら、どんなに急いでも三日はかかる。何もわからない子どもだったからこそ誘えたようなものだ。もちろん、いまババ砂漠観光を提案するなら、たっぷり時間を取って、エリザの身体に負担がないように配慮するし、宿だって一番良いところを手配する。道中も飽きないように華やかな観光地をいくつか予定に組み込むつもりだ。


 そこまでのプレゼンテーションをしたら、彼女は首を縦に振ってくれるだろうか。


「……もし」


 情けない。

 声が震える。

 ただの幼馴染みが――それも多大なる下心込みで――誘って良いものだろうか。ああエリザ。僕は後悔している。どうして婚約を白紙にしてしまったんだろう。記憶から消えてしまうような男と結婚なんてしたくないだろうと思って、良かれと思ってそうしたけど。君のためならと思ったけど、僕は、いまも君のことが好きだ。きっとこれから先も君だけが好きだ。


「何?」

「もし君さえ良ければ、連れて行きたい」

「え」

「かつての君が行きたいと言っていた、この砂漠にも、僕が好きなバラ園にも」

「え、と。アレク?」


 跪いて、彼女の手に額をつける。


「アレク? ちょっと、どうしたの?」


 頭上から降って来るのは、困惑しているエリザの声だ。


「きっと、犯人を捕まえて、君が安心して出歩けるようにするから。その時はどうか、君と一緒にこの絵の景色を見たい」

「あの」

「道中は君が疲れないよう、最大限の配慮をするつもりだし」

「アレク?」

「特にババ砂漠はかなりの遠方にあるから、もちろんこまめに休憩はとるつもりだし、少し遠回りになるけれど、観光地に寄ったりして、君が飽きないように――」

「待って待って。アレク、どうしちゃったの?」

「どうしたとは」

「だって、私達、ただの幼馴染みなんでしょう?」

「ただの、じゃない。大切な幼馴染みだ」

「だとしてもよ」


 そう言って、エリザはすとんと腰を落とし、ボクと視線を合わせた。夜空のような藍色の瞳が僕を見つめている。透き通るような白い肌は、僕がずっと触れたかったものだ。思わず手を伸ばして、その頬に触れる。想像していたよりもずっと柔らかく温かい。


「アレク? ねぇ、アレクったら」


 宝石のような瞳に心を奪われ、きめ細やかで滑らかな肌に指を滑らせる。


 ぷくりとした血色の良い唇から、何度も僕の名を呼ぶ声が聞こえてくる。

 

 それに応えたつもりだった。

 名を呼ばれたのだから、ただ、返事をしようと。

 

 だけど。

 

 僕の口からは何の声も出ることはなく、ただ。

 

 ただ、その唇に自分のそれを重ね合わせていた。


 自分がそのことに気が付いたのは、エリザが僕の身体を押して、距離を取った時だ。唇に触れていた柔らかさと温かさを失ってから、そこに触れていたものに気が付いたのである。

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