第4話 思い出せるかは相手への気持ち次第

 結局。

 私の頭については、殴打による骨へのダメージはほぼなかった。包帯を巻いていたのは、岩の尖ったところで頭皮を軽く切ったためで、それもほんのかすり傷のようなものだったらしい。ただ、衝撃で脳震盪を起こし、諸々のショックも相まって三日ほど目を覚まさなかったのだと。母親から譲り受けた豊かな――という言葉では片づけられないほどの毛量に恵まれたアッシュブロンドに助けられた形である。

 

 いや、だとしても!

 いくら髪の毛が厚くてもそこまで頑張ってくれるかしら?!

 岩よ?! 岩でガツっとやられたんですけど?!

 しかも! あのサイズよ!? 見ました?! 大きさ!


 と思わずお医者様に突っ込むと、彼は私の勢いに驚いて椅子から転げ落ちた。そして、慌てて座り直し、ズレた眼鏡を元の位置に戻して、こう言ったのだ。


「エリザ様、ご自身の加護をお忘れで?」


 と。


「加護……。石、の?」

「堅牢な、それはそれは堅牢な石の加護です。つまり――」

「石頭、ってコト……?」

「そのようで」


 試しに、ごつ、と頭に拳を思い切り打ち込んでみる。衝撃も痛みもそれなりにある。頭にも、殴った拳の方にも。特にめちゃくちゃ硬い感じはしないけど。


「あんまりそんな感じ、しないんですけど」

「私も加護の発動条件については専門外ですので存じ上げませんが。しかし、そうでもなければ説明がつかないのです。常人ならば、頭蓋骨陥没で即死のはずです」

「陥没! 怖っ!」

「いや、陥没で済むかどうか。粉砕、あるいは爆発かもしれません」

「粉砕!? 爆発!? もっと怖い!」


 あのサイズの岩ですものね、と花瓶に目をやる。お医者様も「あのサイズですからね」とそちらを見てため息だ。ごめんね、花瓶。あなたが直接の凶器でもないのに。何かある度にチラチラしちゃって。大丈夫、あなたはとってもきれいよ。そのお花もとっても素敵。


 とにもかくにも、外傷については問題ない。

 ただ――、


「それよりも記憶が欠如されている部分があるとか」

「えっ、まぁ――多少」

「それも、アレクサンドル様に関することのみとは、ふーむ」

「ふ、不思議ですわねぇ、ホーホホホ!」


 ちょっと馬鹿、蒸し返さないでよ! なんて言えない。だって、元はと言えば自分で蒔いた種だ。それに――、


「お察しします、アレクサンドル様」


 私の後方には、その彼がいるのである。


「いや」


 やっぱり彼は何の表情も変えずにそう言った。


「ですが、エリザ様とは婚――」

「あの!」


 思わず会話に割って入る。またしても強めの声を出した私に、お医者様は再びびくりと身体を震わせた。


「ぜ、前例とかあったりします? その、特定の人のことだけ思い出せないとか、そういう」

「えぇ、もちろん前例はございますとも。大抵はご自身のことも、それから数年分の記憶もごっそり、みたいなのが多いのですが、特定の人物の記憶だけ、ということも過去にはもちろんございました」


 お医者様のその言葉に動いたのはアレクだ。


「やはりあるのか。ちなみに、その場合、記憶は戻るのか?」


 抑揚のない声である。何の感情も込められていないような、そんな声だ。彼は昔からそうなのだ。


 アレクにしてみたら、私の記憶なんて戻らない方が良いんだろうな。だって、私が全部思い出したら、また婚約状態に戻ってしまう。だけど、アレクは伯爵なのだ。例えそんなことになっても、そこは爵位を振りかざして、どうにかするかもだけど。でも、大丈夫、そこは私の匙加減だ。


「そうですねぇ。こればかりは何とも。ただもちろん、戻ったという前例はございます。そのためにはエリザ様の意思も重要になって来るかとは思いますが」

「私の?」

「そうです。特定の人物の記憶のみの欠如、というのは、大抵の場合、そのお相手が……、その……、その方にとって、良くも悪くも影響が大きいと申しますか――」

「ううん? つまり、どういうこと? 良くも悪くも?」


 なんだか随分持って回った言い方をするじゃないの。だからどういうことなのよ。首を傾げる私に、アレクが補足説明してくれる。


「要は、大好きか、大嫌いか、ってことか」

「……そういうことでして」

「あっ。なーるほど!」


 そっかそっかそういうことね。

 やっとわかって、思わずポン、と手を叩く。


 なーるほど、ではない。

 そんな明るく言い放ってる場合ではないのだ。


「ですから、エリザ様の心の奥の奥、無意識の領域で、どうしても思い出したい、思い出さねばと強く願うか、はたまた、このまま忘れていたいと願うかによるのでは、と思われます、はい」


 額の汗を拭き拭き、私の方をチラチラと見ながら彼はそう言った。


 お医者様は知らないのだ。

 私とアレクの婚約がつい数分前に白紙になったことを。知らないのはお医者様だけではない。あの後すぐにお医者様をここに呼んだから、この屋敷内の人間はまだ誰一人知らない。恐らくはこの後、アレクが大急ぎで通達するだろう。私には内緒で。それで本当に終わりだ。


 だから、お医者様は、まだ私とアレクが婚約中だと思って焦っているのである。私が思い出さないと、私がアレクのことを思い出したくないほどに嫌っていることの証明になってしまうと思っているのだろう。そして、それを説明するのは、さぞや気まずいだろう。


「そうか」


 アレクはそれだけ言って、立ち上がった。


「エリザ、一人にしてすまないが、僕は少々やることがある。今回の件はウチの領内で起こった事件だ。申し訳ないが、犯人を捕まえるまで、君の安全を確保するため、しばらくこの屋敷に滞在してほしい。迂闊に君を外へ出して再び襲われるなんてことになれば、ストーン男爵に顔向け出来ない。君が不自由なく過ごせるよう、ストーン家から使い慣れた家具なども送ってもらうよう手配はするから心配はいらない」

「え、あ、ありがとう、ございます……」


 そういえば、ここに住むつもりだったから家財道具とか送ってるのよね。成る程、上手いこと誤魔化したわね、アレク。確かにいきなり自分の屋敷にあったものが続々と運び込まれたらさっきの「ただの幼馴染み」って話の整合性がとれないもんね。これなら、ちょっと仕事が早いだけってことになるし。いや、にしても早すぎでしょうよ。私がガチで記憶喪失だったとしても疑う展開よ!

 

 アレクはいつもと変わらず、ぴん、と背筋を伸ばして部屋を出て行った。そこには『婚約者に忘れられた哀れな男』なんていなかった。普段と変わらぬアレクサンドル様である。その姿を見て、お医者様は混乱しているようだった。さすがの彼でも多少はショックを受けると思ったのだろう。そうだよね、私も。


 たぶんいまごろ屋敷の人間に伝えているんだろう、私との婚約を白紙にしたことを。いつもと変わらぬ態度で。たぶん、表情も固定で。それで悲しむ人ってどれくらいいるんだろうな。私との婚約を喜んでくれてた人って、この屋敷にどれくらいいたんだろう。おじ様やとおば様は喜んでくれてた、うん。それは間違いない。それからメイド長のケイシーだって、執事のルーベルトさんだって喜んでくれてたはず。


 でも、他の人達がどう思っていたかは知らない。


 私はアレクとはタイプも違う。

 アレクにはきっと、おしとやかで思慮深い令嬢がお似合いだ。髪の毛だってこんなふわふわもっさりよりはアルジーヌおば様みたいなサラサラストレートの方が良かったかもしれない。こんなうるさいだけの男爵令嬢なんて本当はふさわしくないって使用人達もみんな思ってたかもしれない。


 とにかく、犯人を捕まえるまではここにいても良いみたいだし、事件が解決したらすぐに戻れるようにしておかないとな。あぁ、お父様とお母様になんて説明しよう。がっかりするだろうな、伯爵家との結婚が破談になって。……って、そんなことを思う人達じゃないかもだけど。でも、これがきっかけでクローバー伯爵とチェスが出来なくなったらどうしよう。いや、それもないか。あの父だしな。


 そんなことをぼぅっと考えていた。

 

 ずきずきと痛むのは頭じゃない、胸だ。 

 ほんと、馬鹿なことをした。

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