第3話 出来心で婚約が無かったことになる
さて、記憶の整理という名の回想シーンを挟んで、だ。
「ま、待って」
お医者様を呼びに行こうとするその背中に向かって声をかけた。
アレクが、振り返る。いつもと変わらぬ、眉間の深いしわ。いつもと違うのは、額に浮かぶ汗だ。その一つが、つぅ、とこめかみを伝っていく。
記憶の中をどれだけ探ってみても、私はアレクがこんなに汗をかいているところを見たことがない。馬に乗っている時でさえ、彼はいつも涼しい顔をしていた。眉間以外の表情筋がまるで仕事をしていないアレクは、いつだって冷静で、スマートだ。焦るとか、取り乱すとか、そんなことは絶対になかった。その彼が、だ。
いつもなら一分の隙もないくらいにぴしりと整えられている黒髪も少し乱れているし、スラックスにはしわが出来てた。そして何よりも、その、汗だ。
出会って約十年、やっと彼の『人間らしさ』に触れた気がしてドキドキする。こんなアレク、初めて見る。
と同時に、ふと、悪い考えが浮かんだ。
もし。
もしも、だ。
私が記憶喪失の振りをしたら、彼はどんな反応をするだろうか。
曲がりなりにも私は婚約者なのだ。
例え、実際に文面を考えたのは
「どうした。気分でも悪いのか?」
「違うの、その」
「顔色が良くない。すぐ医者を――」
「そうじゃなくて、その」
もじり、と掛布を弄ぶ。その様子に、何らかの異変を感じ取ったらしいアレクが早足で私の元へと戻って来る。そして、腰を落として、顔を覗き込んできた。艶のある前髪が額に貼りつき、眉間のしわはまだ深い。黒曜石のような瞳の奥に、やはり微かな動揺が見て取れて、ぞくりとする。あのアレクが、私のために心を乱している。その事実に胸がざわつく。
「あなたは――」
恐る恐る言ってみた。「どなたですか」と。
さぁ、どう出る。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、アレクの目が見開かれた。
そして、固く瞼を閉じ、それをゆっくりと開いていつもの顔に戻す。そうしてから、フ――――、と細く長い息を吐いた。私の心臓はドクドクと高鳴りっぱなしだ。数秒間の沈黙の後、アレクが、すぅ、と吐いた分だけ息を吸った。
そして。
「幼馴染みだ、ただの」
「え」
「僕と君は、爵位こそ違えど、親同士が仲が良くて、幼い頃から交流があった」
「お、おさな、なじ、み?」
「そうだ。もう十年ほどの付き合いになる、ただの幼馴染みだ」
「そ、そうなの?」
「いつものようにウチの領に遊びに来たところで襲われたようだ。君を襲った犯人は必ず捕まえて相応の処罰を下すことを誓おう。本当にすまなかった」
「いえ、そんな」
いや、ちょっと待って。
幼馴染みって何?! いや、確かに幼い頃からの付き合いではあるけど!?
「あ、あの、ごめんなさい。え――……っと、幼馴染みというのは、その」
「何だ」
「何ていうか、その、例えばその、男女の、っていうか、その、ゆくゆくは結婚したり? なんてことは」
「……それはない。安心してくれ。僕と君はそんな関係ではない」
エ――――――――?!
違うじゃん!
私達、婚約してたじゃん!
ていうか! 婚約の話持ちかけて来たのそっちでしたよね?!
フツーに考えて男爵側から伯爵家に「ウチの娘と結婚してくれ!」とか言わないよね?! 売り込まないよね!? いや、ウチの父ならあり得るか……?
混乱する私を見たアレクが、「失礼」と断ってからそっと背中に触れてきた。そして、そっと優しく擦ってくれる。
涙がほろほろと落ちて、掛布に落ちる。ウチで使っているものよりも当然だが上等なものだ。アレクは私が涙でそれを汚すのを咎めたりはしなかった。
いつだってそうだ。
彼は口数こそ少ないし、何を考えているのか読み取れないほど表情が死んでいるが、優しいのだ。私が少しでも疲れたような顔をすれば、好きなお菓子やお茶を用意してくれた。私が来る日には必ずきれいな花を飾ってくれたし、好きな作家の新刊は必ず手に入れてくれてた。
幼い頃、まだ婚約する前のことだ。
私がどうしても庭で遊びたくて駄々をこねた時、彼が渋々ついて来てくれたことがあった。気をつけながら遊んでいたはずだったが、案の定ドレスは砂まみれになり、裾のレースも何かにひっかけて破いてしまった。どうしよう、お父様に怒られると青くなっていると、アレクは突然泥の中に飛び込み、その場でごろごろと転がり出したのだ。私のものよりも格段に上等なシャツもベストもスラックスも汚れに汚れ、酷い有り様である。突然どうしちゃったのとドン引きしたが、父達の部屋に戻って理由がわかった。
「こらアレク。君のせいでエリザ嬢のドレスが台無しじゃないか。すまなかったね、エリザ嬢。ウチのわんぱく息子のわがままに付き合わせてしまって。さぁ、あちらで着替えておいで。ケイシー、エリザ嬢を頼む」
メイド長のケイシーに「エリザ様、参りましょう」と手を引かれながら、ちら、と振り返れば、「良いかい、アレク。例え君が泥んこ遊びをしたくとも、レディを巻き込むのは良くない。男児は多少わんぱくでも良いし、服を汚したって構わないが、レディは違う。おしゃれにも時間がかかるし、あの可憐さは努力と我慢の上に成り立っているんだ。それに、男よりもずっとか弱い。あの柔肌に傷なんてつけてみろ、例え国王が許しても僕が許さない」とクローバー伯爵に叱られているアレクの姿が見えた。彼は変わらぬ仏頂面だったけど、しゅんと肩を落として俯いていた。
「ケイシーごめんなさい、ちょっとだけ待ってもらえる?」
そう断って手を振りほどき、彼の下へ走った。
「おやエリザ嬢、どうしたんだい」
「ランスロットおじ様、違うの!」
そう言って、ぎゅっとアレクの身体にしがみついた。
「アレクは悪くないの! 私が遊びたいって言ったの! アレクは私のために罪をかぶったの!」
「エリザ、僕にしがみついたら、せっかくのドレスがもっと汚れちゃう。離れるんだ」
「もうここまで来たら一緒よ! おじ様、アレクを怒らないで! 怒るなら私にして!」
「おやおや」
「エリザ、僕は良いから」
「駄目よ! それは正しくないわ! 悪いことをした人が裁かれるべきなの! 悪いのは私なの!」
「でも僕だって君を止めなかった。だから僕が悪い。それに転がったのは僕の意思だ」
「そんなことない!」
私はアレクにしがみついたままわんわんと泣き、アレクはたぶんオロオロしてた。真顔だったけど。それで、クローバー伯爵が「じゃあどっちも悪いということで手打ちにしよう。では、罰としてケイシーと一緒に午後のお茶の用意をしてくれたまえ。ほら、まずは着替えだ」と笑いを噛み殺しながら私達に告げた。
私はアレクに手を引かれながら「そんなのが罰なんて、おじ様は甘すぎるわぁ」と泣き続けていたらしいけど、さすがにそこまでは覚えていない。これは後にアレクから聞いた部分だ。
頭を殴られたせいなのか、今日はやけに昔のことを思い出してしまう。
そう、何が言いたかったのかというと、アレクはそういう不器用な優しさを持っているということなのだ。それで、その数年後に婚約の話が出た。政略結婚か? と思いつつも悪い気がしなかったのは、アレクだからだ。
それから七年。
私は婚約者だった。
相変わらずアレクの表情筋は死んでたけど、うまくやってるつもりだった。
なのに。
私が記憶喪失とわかるやなかったことにしてしまうなんて、もしかして彼はそもそも私のことなんて好きじゃなかったのかもしれない。本当は全然好きじゃないけど、でも親が決めたとはいえ婚約者だし、と彼なりに盛り上げてくれていたのかも。だから本当はずっとやめたかったけど、貴族同士の婚約がそう簡単に解消なんて出来るわけがない。いよいよ逃げられないという段になり、さてどうしようかと思ってたところだったのかもしれない。要は、渡りに船、というやつだ。
そう考えると、次から次へと涙が零れ落ちて来る。
背中を擦る手は温かい。一定のリズムを刻んでいるのが生真面目な彼らしい。
「怖かったろう。もう大丈夫だ」
「え? えっ、と」
「襲われた時のことを思い出して泣いているのではないのか」
「そういうわけじゃ、ないですけど」
「そうなのか。では頭に痛みが?」
「そうでもなくて」
失恋のショックで胸が痛いだけです!
そう叫んでやりたいけど、出来ない。
本当は「記憶喪失なんて嘘よ! バーカ! 婚約者じゃないってどういうことよ!」って胸倉を掴んでやりたかった。やりたかったけど。
でも、アレクがそう思ってるなら、無理だ。
そうだよ。こんなガサツで荒っぽい男爵の令嬢が伯爵の婚約者なんてふさわしくなかったわよね。大丈夫、もし私が婚期を逃しても、聖女の肩書はある。最悪、教会が面倒を見てくれるだろう。あなたはもっと素敵な令嬢と幸せになってね。
そう気持ちに折り合いをつけることにした。
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