7 そうして庶民の平穏は、その幕を降ろす




 ――そうして街は、まるで最初から何事もなかったかのように、人々はいつもの活気を取り戻す。


 ともすればあの一件のことなどまるで知らず、一夜明けてようやく小耳に挟むものもいるだろう。


 いくつかの建物の外壁が崩れ、通りが傷を負ったものの、それらはどれもどうにでもなるものだ。事件の痕跡と言われればそうかもしれないし、そうでもないかもしれない。だからその日の一件は、知る人ぞ知る噂話として、いずれ静かに忘れ去られていくものとなる。


 しかし、いくつかの禍根があった。


 その日、その場にいて、死を迎えたものはいなかった。死ねばその時の記憶が失われ、翌日に目を覚ます。だが死者が出なかったということは、その体験がいつまでも当事者の記憶に残り続けるということでもある。


 人々の心に「不安」と、「恐怖」が生まれた。


 それは心のかたちを永遠に変えてしまいかねない「傷」として、残り続ける。


 それはまた、わたしたちも同様で。

 踏み越えればあとにはもう退けないその一線を、望まぬかたちで踏み越えた。


 予定は乱れ、計画は狂い始める。




 そして、その日を迎える。


 鏡の前でわたしは、帝国立学習院高等部の制服に身を包む。白を基調とし、黒と金糸で彩られた羽織り衣。

 わたし、カレイエ・アヤミは今日から二学年生。制服を留める腰帯も、二年を表す赤になる。帯を締めると、気分も引き締まる想いだった。……制服がちょっと、キツかった。


 ……昨日、あんなに走ったのに?


「アヤミー、支度できたー?」


 ミネイの声に、わたしは返事をする。


 ここは『桔花邸』の「本館」そばにある使用人宿舎。わたしはミネイの、カレイエ家の養子として厄介になっている身分だ。


 それもともすれば、今日で最後になるかもしれない。


 私が拾われたのは、皇太子の側仕えとして働くため、なのだから。


 これから数時間後、高等部の講堂で皇太子殿下の正体が公表される。それが、最初の行程。そしてその晩、『星見台』に光が灯る。


 姫選びが本格的に始まるのだ。


 昨日の、いまだに整理のついていない騒動が思い起こされる。思えばあの日、門の前でハントはいつになく"強い言葉"を使っていた。そして実際に騒動が起こった。


 ……ああいうことが、これから先も起こるかもしれない。なんなら昨日よりも規模が大きく、今度は明確にわたしの身近な人たちを狙って。


 わたしはハントたち騎衛衆と同じく、そうした事態を警戒し、対応すべき立場にある。


 ……にもかかわらず、昨日は何もできなかった。


 ミネイやエイリク、カレイエの家の人たち、厨房のおばちゃん、桔花邸のみんな――


 守らないと。

 そう強く、心に刻む。


 頑張れ、わたし。


「アヤミー?」


「今、行く」


 わたしは部屋を出た。




 そして、登校する。

 制服姿のわたしたちは誰にはばかることもなく、堂々するでもなくごく自然に、すれ違うどこかの侍女たちに優雅な挨拶をしながら敷地内を進み、門番に見送られながら『桔花邸』をあとにした。


 朝の大通りはわたしたちと同じ格好をした人々で溢れている。人口のほとんどを学生が占めるのだから当然だ。残りはその家族や親戚縁者で、市民のためのあらゆる商売関係者もまた然りだ。


 帝国立学習院は下は七つから、上は二十歳までと幅広い。七学年制の「初等部」と四学年制の「高等部」、そして職業や学科ごとに専門の教育を受けられる「高等部・補科」が存在する。

 学舎は【小帝区】の北部に集まっているが、後年つくられた「補科」の学舎は区内各地に散っているようだ。学生寮も北東部にあるため、学舎では昨日の一件についてまったく知らないものも多数いることだろう。

 仮に昨日、誰かが何かを目撃していたとしても、その情報はほとんど伝わっていないと思ってもいい。


 しかしそれも、残り数時間。

 わたしたちの秘密はじき、この【小帝区】全域に知られることとなる。


「……殿下さまは!」


 ミネイが興奮した調子で、だけどいちおう周囲を意識し押し殺した声で言う。


 ……昨日、ミネイは「冴えない年上の同級生」が実はこの国の皇太子殿下であると知った。さぞかし幻滅するのではないかとわたしは懸念していたのだけど、案外そうでもなく、ご覧の通り。


「もう桔花邸を出たのかな? というか本当に『本館』に住んでるの?」


「……どうだろうね」


 いちおう住んではいるのだが、身分を偽っているあいだは「厨房預のおばちゃんの一人息子」という設定でいたため、区内にあるおばちゃんの家に滞在することもあったようだ。邸内ではうかつに人目に触れられない身であるため、外での暮らしはさぞ自由を謳歌できたことだろう。今はそこにエイリクも転がり込んでいる。わたしとミネイのように、あちらは男同士、積もる話でもあったかもしれない。


「始業式で公式発表……! それまでわたし、みんなに黙ってられるかな……!?」


「ううん、どうだろうね……」


 とりあえず、ミネイは幸せそうで何より。


 昨日のあの一件のあと、少しだけ、イツセとわたしたちが言葉を交わす時間があった。しかし彼は翌日に初の公務を控える身。その前にあんなことがあって、それは『桔花邸』に滞在する姫君たちの耳にも入っていた。だから「皇太子」として、そちらの対応に追われ、昨日は結局落ち着いた話す時間は得られなかったのだ。


 なにで、「待て」を喰らった飼育犬ペットみたいに、ミネイは二つに束ねた髪を揺らして興奮を抑えている訳である。


 ……わたしはといえば、昨夜は一晩じゅう「なんとなく正体を知っているとにおわせていた(ミネイ談)」ことからミネイから質問攻めにあったりして、実は現在だいぶ寝不足気味。出発前の気合はどこへやら、ミネイの言葉にも上の空の空返事。


「皇太子の姫選び、恋愛頭脳戦バトルロワイアル……! 特等席で観覧だ!」


 とまあ、ミネイは完全に「お客様」、他人事の調子ノリだけども、


「あのね、ミネイ。我々、完全に当事者。むしろ、参戦者」


何故ワイ?」


 自意識過剰ならどれだけいいか。しかし姫君たち、ひいてはその支援者たちは何に目をつけるか分かったものじゃない。


 身分を偽り庶民として過ごしていた皇太子殿下の、幼馴染みのような立ち位置にいたわたしたち。エイリクはともかく、ミネイとわたしはあらぬ誤解、おかしな嫉妬、それから少しでも情報を得たい庶民たちの注目の的になりえるのである……。


 貴族と庶民という隔たりは周知のもので、常識で、圧倒的な現実だとしても。


 そうした空想を、人々は好むから。


 だからこれからはなるべく目立たず波風立てず、いてもいなくても気付かれない、そこにあって当たり前であるため誰も気に留めない、そんな空気のような使用人として――


 生きて……。


 生きたい、と……。


 それが、平穏を願っていたわたしの、カレイエ・アヤミの人生設計だった、のに……。



 ……あの殿下さまときたら……!



 講堂の舞台に立ち、人々の前に姿を現したオミクリ・イツセ――もとい、"皇太子"カミカド・ヒッセイは、誰もが見過ごす陰影陰キャ属性など影も形もない、まるで別人のような出で立ちで、生徒たち、教員たちを見渡した。


 その青い瞳は澄んでいて、皇太子殿下の登場に沸いた講堂を一瞬で鎮める。


 静寂の色を宿した瞳、水面を撫でるような声、そして周囲とは完全に隔絶されたような空気を身にまとい、かの人は口を開いた。


 今日より、帝国の未来を左右しうる『晴夢の儀』が始まる。


「候補たちはじき、皆の前に姿を見せるだろう。既に承知しているものもいるはずだ。私は彼女たちの中から、一人を選ぶ。そして」


 民もまた、自らの王に、相応しき人を選ぶ。

 皇族は神であり、支配統治する王であり、そして民草への奉仕者であるのだから、そこに自由意思はあってないようなもの。


 愛する人を妻にするのではない。

 誰もが望む理想の姫君を、迎え入れるのだ。


 それが国にとっての幸福さいわい。それがこの国の平和を担保する、王と民とのあいだに交わされた暗黙の契約。


 王が妃を選ぶのではない。

 民が選んだその人が、王の妃になる。


 あるいは、「そうある」ように努めることが求められる。


 王も、姫君たちも。


 もしも個人としての「アイ」で、その自己エゴを貫こうと思うなら、相応の覚悟が必要だ。


 世界を敵に回す、覚悟が。



「そして――――そうだな。選ぶだろう。だけど私は、与えられた選択肢『以外』にも目を向ける。そして私は既に、選んでいる」



 ……ん?



「カレイエ・アヤミ――お前が私の選ぶ、花嫁だ」



 ――【小帝区】の噂の発生地、その人口の大半が集う学舎にて。


 人の口に戸は立てられず、騒ぎは怒涛の勢いで区内全域に広がっていく。


 前日の変事も何処吹く風、衝撃的センセーショナルな一大事。


 のちに、皇太子はこう述懐する。


 もう戻れないあの日々へ、そのとき私は別れを告げたのだ、と。


 ……ふざけるな、皇太子この野郎。


 それはわたしの台詞だよ。



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