1 もう戻れないあの青春の日々へ
1 場違いな庶民たちの日常の一幕
「……少し、肉がついた……?」
姿見の鏡台を前に、わたしは愕然とした。
そこには、裸体に内布をまとっただけのあられもない姿の少女が写っている。凹凸が少なく、一見すると肉付きの少ない細身の身体。しかし何かこう、違和感。
内布とは素肌に直接身にまとう下着のようなものだ。胸部と下半身とを覆う。肌帯とも呼ばれる。この上に胴衣を着て、腰帯を巻いて着付ける。その時、お腹に違和感があったのだ。
「…………」
……太った?
いや……きっと、食後だからだ。少しお腹が出ているだけ。
しかしわたしには嫌というほど身に覚えがあって、この半月近くで口にした様々な料理が脳裏をよぎっていった。
恨むべきは
……わたしのせいか?
いや、違う。決して自堕落に引きこもっていた訳ではないし、怠惰な日々を過ごしていた訳ではない……。ぜんぶ、ぜんぶ……そう、この国が悪いのだ。
「……ふう」
心を落ち着かせ、わたしは気を取り直して身支度を整える。
久々の、自由な私的外出。ともすればしばらくこのような時間は訪れないかもしれない。何を着ていこうかと、我ながら珍しく年頃の乙女みたいな思考が浮かぶ。
しかし、あまり浮かれてもいられない。それが庶民のつらいところだ。
白の胴衣に紺の腰帯を巻いて、上から浅葱色の柄のない着物を羽織る。これに肩から脇にかけて斜めにつけるたすきと、さらに腰に巻く帯を以て、一般帝国市民の普段着が整う。高貴な方々はこの上にさらに肩から足元までを覆い隠す
高貴な方々……そう、わたしが住むこの『桔花邸』には現在、大陸各地から有力貴族・名家の姫君たちが集っている。
皇太子の『花嫁選び』……その主要となる人物は、五人。大陸でも知らないものはいないだろう五つの名のある家から、我こそがのちの皇后であるとばかりに気合の入った五人の姫君たちが訪れている。このことだけでも、今の桔花邸の状況が窺い知れるだろう。
加えて、もちろん姫君が単身乗り込むはずがないため、屋敷には姫君たちの女房、侍女たちといった使用人衆も揃い踏み、桔花邸敷地内に五つある別館にそれぞれ本陣を構えている。
この女房、侍女たちというのが少し厄介なもので、彼女たちもまたそれぞれ姫君たちにゆかりある名家の出の貴族令嬢たちなのである。のちの皇后との繋がりを得ようとする、権力家たちの権謀術数の手先なのだ。
それに、表向きは侍女として大人しくしているものの、過去には肝心の姫君ではなく侍女が『妃』に選ばれた例もあるというから、彼女たちも裏では爪を研いでいる訳である。そして何より、その本質はお嬢様。自分たちはお洒落も出来ないでいるのに、同じ邸内に住む「庶民」が着飾っていれば、果たしてどんな目で見られることか……。
桔花邸には『晴夢』とは関係なく、皇太子殿下に仕える世話役の使用人たちが十数人ほど住んでいる。わたしもそのうちの一人であり、そのためこの頃めちゃくちゃ気の重い生活を強いられているのである……。
わたしたち使用人が仕えているのはあくまで皇太子殿下であるが、のちの皇后陛下となるかもしれない姫君たちに目を付けられるのは、考えるまでもなく得策じゃないだろう。
気の毒なのは男衆だ。桔花邸にも少なからず男手はある。そう、少なからず。今や女の園と化した桔花邸において、彼らはあまりにも肩身の狭い立場を強いられている。
男子禁制の区画が設けられているのはもちろん、『花嫁選び』という行事の仕様上、皇太子殿下以外の男性との関係が噂にでもなれば、その姫君の敗退は確実である。過去にはこれを利用して、
この花嫁選び、我々使用人にとって毎日が神経を削るような苦行の日々なのである……。
そんな日々における、片時の休息日。
明日から
学生やその親類も今日ばかりは奉公を休み、明日からの学業の日々のための準備を整えることが許される。とはいっても、参月節はずっと冬期休暇で人によっては毎日が休日だったのだけど、それはそれとして、今日は特別な休日、祝日なのだ。
この日だけは、使用人たちも多少の「勝手」が黙認される。皇太子に仕える身とはいえ、今日だけはその仕事を断ってもいい。なにせこの祝日を制定したのはその皇太子殿下ご自身なのだから。
……少し懸念があるとすれば、この祝日は【小帝区】独自のもので、つい先日この地に来たばかりの姫君たちにもそれが周知されているか、だろう。ともすれば出先で捕まって、何かおつかいを言い渡される恐れがないでもない。
……まあ、先のことを気にかけても仕方ない。
「よし」
鏡の前で、両手で頬を叩き、気合を入れる。
「今日はぜんぶ忘れて、楽しむ」
何をどう楽しむのか、なんの計画もないが、そこはミネイが考えてくれているだろう。わたしはこの休日を
わたしの名前は、「カレイエ」アヤミ。帝国立高等学校の一年生(明日には二年生)。桔花邸の使用人家に居候する一般女子。庶民。
……「マツリベなんとか」さんなる男性とは無関係の、可愛い女の子。
「よし」
今一度鏡の前で頷いて、わたしは部屋を出た。
わたしの住む『桔花邸』は【小帝区】の中央区画にあり、その一帯を占める広大な敷地を持つ。
五角形の頂点が多い方を下にしたようなかたちの城壁に囲まれた、区内城塞、武家屋敷。そういった趣きの屋敷だ。この【小帝区】において最長の高さを持つ建築物『星見台』を中心に据え、その近くに皇太子殿下の住まう「本館」がある。わたしたち使用人はその「本館」に隣接する使用人宿舎に住んでおり、近くには厩舎と騎衛衆の常駐する詰所がある。この辺りが肩身の狭い男性衆の生存圏だ。
屋敷の敷地を囲う五角形の城壁、その各辺には「別館」があり、現在は『晴夢』のために各地の姫君たちが滞在している。この「別館」は帝国首都における「大使館」のような役目を持っていて、以前からその土地出身の使用人たちが管理していた。そうした面々とは顔見知りであるが、あちらも最近は母国からの来賓の相手で忙しい様子だ。
五角形の城壁のそれぞれの角には、敷地の外に出るための門がある。いちばん下の角にある門から時計まわりに、「
門の先には大通りが伸び、途中いくつも枝分かれするのだが、それはずっと先で【小帝区】を囲う城壁と大門まで続く。
桔花邸を中心に五つの大通りが存在するのだが、どこかでどうにかなるようで、この街の建物は碁盤の目のようにきれいに規則正しく並んでいるから不思議だ。
わたしは同じ使用人の子供で同い年の少女ミネイと合流すると、「木実門」から桔花邸を脱出した。
「木実門」の近くには「
「はあぁ……ほぼ自分ん家といっても差し支えないっていうのに、どうしてこうも泥棒みたいに抜け出さなくちゃいけないのかねぇ……」
まだ昼下がりだというのに、まるで一日の仕事を終えたばかりといったようにぐったりとした顔で、ミネイは着物の裾で額の汗を拭った。せっかくお洒落してきたというのに、腰帯は緩み、浅黄色の着物ははだけている。中に来ている胴衣にも汗が滲んでいた。
わたしも
「堂々としていればいいのに。だって、今日は祝日なんだから……!」
「でもさぁ……」
「今日のわたしは何も恐れないよ」
人目を忍ぶ逃亡犯みたいに移動してきたミネイと違って、「おつかいでちょっとお外に出てきます」といった雰囲気で堂々と敷地内を歩いてきたわたしはまだまだ余裕だ。
「ミネイも、お忍びで逢瀬に出向くお姫様くらいの気分でいないと」
「今日は凄まじく
と、ミネイが目を向けたのは、門から少し離れた物陰に隠れていた、二人の青年だ。
「おっす、おっすおっす」
一人は、女の園と化した桔花邸に当初こそ興奮していたものの、やがて怖気づいて屋敷の外に住む友人の家に転がりこんだ、わたしたちと同じ使用人の子供、マツナギ・エイリク。
黒の胴衣に紺の着物という、普段の屋敷仕事の時と同じ格好をしている。ミネイいわく、「自らが
「奇遇だね……」
それと、その友人。桔花邸の厨房預の一人息子である、オミクリ・イツセ。普段は桔花邸の外に住んでいるとのことだが、親の仕事の手伝いでよく屋敷に姿を現している。
わたしたちより二つほど年上なのだけど、ワケあって同じ学年に在籍している同級生。そのためかエイリクより背も高く、より大人に見える。一方で長い髪で目元に影をつくっていたり猫背だったりで、ミネイには「
「ガッコは明日からなのに、なんでもう制服着てるわけぇ……?」
ミネイの非難の眼差しはイツセに向けられていた。仕事着姿のエイリクもあれだが、イツセは黒の胴衣の上に白を基調として黒と金糸で
「これくらいしか、外に出られる着物がなくってさ……へへ」
暗い表情に、愛想笑い。年下であるはずのわたしたち相手にもイツセはいつも腰が低い。
わたしたちは共に桔花邸で働いていて、年も近いこともあって比較的親しい間柄にある。
かといって別に、せっかくの休日に待ち合わせて遊びにいく関係でもないのだが、イツセの言う通り「奇遇」な遭遇なのである。
……まあ、あえて言うまでもないと思うが、たぶん男子二人はわたしたちの外出の約束を小耳に挟み、ここで出てくるのを待っていたのだろう。
お陰で、「木実門」の前を警備していた騎衛衆の門番の方にがっつり目をつけられていた。
「おいガキども、待ち人が来たのならさっさとはけろ、はけろ」
門の左右で槍を手に城壁にもたれかかっていた二人のうち、向かって右の方の男性が「しっしっ」と手を振る。左の方の人はまさか眠っているのか、目を伏せたまま棒立ちで、こちらを気にした様子もない。
「"中の人"らに睨まれちゃ、お互い困るだろ~?」
まるで年を経たおっさんのような口調に態度で頭髪もないのだが、その容貌は実に若々しく、実際わたしたちとそう年齢も離れていないだろう。
この【小帝区】は「学園都市」という性質上、帝国の他の都市に比べても住人の平均年齢が低いのだが、見た目だけでいえばとりわけ若々しいことが特筆すべき点だ。美容に効果的ということである種の観光地としても知れ渡っているのだが、この番兵がそれを意識している訳ではないだろう。
帝国統治下にあるこの【アイオロス大陸】の人々は、老いを知らない。
生まれて育ち、学生となって、成人する。それからは外見にほとんど変化は起こらない。変わらないことが一つの常識、美徳となって、それぞれに決められた
生まれたその日に知った、命の終わる日を迎えるまで。変わらずに。
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