君がこの部屋にいる間にサボテンの花は咲かなかった

春風秋雄

知らない番号から電話が

「もしもし?雅紀?」

休みの日に部屋でのんびりしていると、知らない番号から電話がかかってきたが、どうせ間違い電話だろうと思って出てみると、女性の声が俺の名前を呼んだ。この女性は誰だ?

「そうですが、どちら様ですか?」

「絵里。宮内絵里」

絵里?嘘だろ?絵里と話すのは10年ぶりくらいだ。

「どうしたの?」

「この前久しぶりに横山君と偶然会って、雅紀の話が出たから懐かしくて電話しちゃった」

横山は俺の学生時代の友達だ。俺が絵里と付き合っていた頃、横山と横山の彼女と4人で、よく遊んだ。一緒に飲みに行ったり、バーベキューをしたりしたものだ。

「携帯の番号変えてなかったんだね」

「俺の番号残していたのか?」

「まあね。何か消すのが嫌で」

俺は絵里と別れてからすぐに登録を削除した。絵里は俺と別れてすぐに結婚したはずなのに、元彼の番号を残していたのか。

「こっちに来ているのか?」

絵里は結婚するため県外の実家に帰った。横山に会ったということはこっちに来ているということだろう。

「ちょっと事情があって、こっちに来ているの」

「そうなのか」

「ねえ、あの映画観た?」

絵里が最近話題になった映画のタイトルを言った。俺たちが好きだった俳優が主演の映画だ。

「当然観たよ。あの俳優の映画は欠かさず観ているよ」


俺と絵里が出会ったきっかけは映画館だった。その時観に行った映画もその俳優が主演の映画だった。

当時の俺は、映画は一人で観に行っていた。一人で観るのが好きなわけではなく、一緒に行ってくれる人がいなかったからだ。その映画は人気の映画で、席はほとんど埋まっていた。映画が始まって15分くらいした頃に、隣に座っていた女性が飲み物を座席に付いているドリンクホルダーに戻そうとして、誤って俺の足に落としてしまった。その拍子に蓋が外れ、俺の足にドリンクがかかってしまったのだ。女性は平謝りに謝って、すぐに映画館のスタッフを呼んでくれた。スタッフが清掃に来たが、上映中ということもあり、俺にタオルを貸してくれただけでどうしようもない。俺はさすがに濡れたズボンのまま映画を観る気になれず、途中で出ることにした。すると、女性が俺を追いかけてきた。

「すみません。本当にごめんなさい」

「起きてしまったことはしょうがないですから、別にいいですよ」

「クリーニング代出します」

「そんな大層なズボンではないですから」

その日俺はカーキー色のチノパンを履いていた。明るいところで見ると、結構な範囲で濡れている。しかもドリンクはコーラだったようで、かなり目立っていた。

「でも、それでは外を歩けないですよね。家は遠いのですか?」

「電車で二駅ほどですから」

「代わりのズボンを買ってきましょうか?」

「いやいや、それほどの物ではないですし、裾上げとか面倒でしょう」

女性は少し考えてから、良いことを思いついたという顔をして俺に言った。

「じゃあ、すぐそこまで付いてきてください」

女性はそう言って俺の手を引っ張って外に出た。3分ほど歩くと、アパートの前に来た。女性はそのアパートに入っていく。2階の部屋のドアまで来ると、女性はバッグから鍵を出してドアを開けた。表札にはアルファベットで“MIYAUCHI”と書かれていた。

「今からズボンを洗いますので、入って下さい。大丈夫です。うちには乾燥機もあるので、1時間もあれば終わりますから」

初対面の女性の部屋に入るのはどうかと思ったが、女性の勢いに押されて俺は部屋に上がった。

「ポケットの物を出して、ズボンを脱いでください。着替えがないので、申し訳ないですが、このバスタオルを巻いておいてもらえますか」

女性はそう言ってバスタオルを差し出し、隣の部屋に消えた。俺は言われるままズボンを脱いでバスタオルを巻いた。

「脱ぎましたよ」

俺が声をかけると女性は俺のところまで来てズボンを受け取り洗濯機を操作し出した。女性の部屋は2DKのようだ。今いる部屋が居間で、もう一つの部屋が寝室なのだろう。

「そこに座っておいてください。今コーヒーでも淹れます」

言われた通りにローテーブルの前に座る。バスタオルを巻いたままの姿だと落ち着かないが、仕方ない。

女性はコーヒーをテーブルに置いて、改めて謝罪をした。

「本当に申し訳ありませんでした。ズボンを汚した上に、せっかくの映画も観られなくしてしまって」

「もういいですよ。ズボンもこうして洗ってくれているわけですから。映画はまた観に行きますので」

「映画代は弁償しますので」

「会社の法人割引のチケットですから、大した金額ではないので大丈夫です」

「法人割引のチケットってあるんですか?」

「ええ。映画館と契約して、福利厚生の一環でかなり安く観られるのです」

「うらやましいですね」

「それより、映画館からこんなに近いところに住んでいるあなたの方がうらやましいです」

「映画お好きなのですか?」

「大好きですね。月に2回は観に行きます」

「私もです。映画館には月に2回か3回観に行っています。家ではレンタルで借りてきたDVDを週に2本くらい観ています」

それから俺たちは好きな映画の話や、好きな俳優の話をした。特に今日観るつもりだった映画の主演俳優は二人とも大ファンで、彼の出演している映画は全て見ているということで盛り上がった。あっという間に時間は過ぎ、ズボンの洗濯は終わった。ズボンを履き、部屋を出ようとした時、女性が聞いてきた。

「今日観られなかった映画、今度観に行くのですよね?」

「ええ、そのつもりです」

「あのー、もしご迷惑でなければ、一緒に観に行きませんか?」

「私も誘おうと思っていたところです。会社から割引チケットを2枚もらってきます」

それから連絡先を交換するために、俺はもう一度座り直した。

女性の名前は宮内絵里さんといった。俺が矢部雅紀と名乗ると、年齢を聞いてきた。俺は26歳で、絵里さんは24歳だった。絵里さんは大学を卒業して、一般企業で経理をやっていると言った。俺はシステムエンジニアの仕事をしていることを話した。


絵里さんと日程を合わせてこの前観るはずだった映画を観に行った。とても良い映画だった。映画を観たあと一緒に食事に行き、二人して興奮して映画の感想を言い合った。それまでは一人で映画を観て、観終わったらそのまま家に帰るだけだったのが、二人で観るとこんなに楽しいのかと感動した。それは絵里さんも同じだったようだ。

それから絵里さんとは月に2回は映画を観に行くようになった。3か月ほどすると映画館だけでは飽き足らず、レンタルで借りたDVDを一緒に家で観ようということになった。俺の家のテレビは52インチのテレビだったので、俺の家で観ることにした。絵里さんが借りてきたDVDはラブストーリーで、かなり過激なシーンもあった。観終わったあと、ストーリーの素晴らしさもさることながら、女優の過激な絡みシーンが脳裏に焼き付いて、俺は感動と興奮で動けなかった。それは絵里さんも同じだったようだ。俺がやっとの思いでDVDデッキを止めて絵里さんを見ると絵里さんは放心状態だった。俺はそっと絵里さんを抱きしめ口づけた。すると絵里さんは俺を強く抱き返して、むさぼるように唇を押し付けてきた。

その日から、絵里はほとんど俺の部屋で過ごすようになった。自分の部屋には時々着替えを取りに帰るだけだった。


電話で映画の感想を言い合っていると、あの頃に戻ったような錯覚に陥った。ひとしきり映画の話をしたあと、ふと絵里が聞いた。

「雅紀は、まだあの部屋に住んでいるのでしょ?」

「そうだよ」

「懐かしいな。あのサボテンまだ元気?」

「ごめん、3年くらい前に枯れてしまった」

二人でテレビを見ていた時、懐かしい歌というテーマの番組でチューリップというグループの「サボテンの花」が流れ、絵里が気に入ってしまった。CDを入手して、歌詞を見ていた絵里が「サボテンの花を見てみたい」と言い出し、サボテンを育てることにしたのだ。絵里は花言葉を調べ、サボテンには“枯れない愛”という花言葉があると言って、大事に育てていた。しかし、絵里はそれから1年くらいしてこの部屋を出たので、その間にサボテンが花を咲かせることはなかった。

「そうか、残念だったね。結局私はサボテンの花を見ることはできなかったね」

絵里がいる間に、“枯れない愛”の花は咲かなかったということだ。


絵里は中学生の時に事故で両親を亡くし、お父さんのお兄さん、つまり伯父さん夫婦に引き取られて養子になった。伯父さん夫婦には子供がいなく、絵里を養子に迎えられたことを喜んでいたそうだ。お父さんと、伯父さんは10歳も年が離れていて、絵里が養子になった時、伯父さん夫婦は50代の半ばだったそうだ。宮内家の長男である伯父さんは、代々続いている繊維工場を経営していた。養子の絵里以外に後継者がいない宮内家としては、先々は絵里が実家に戻り、婿養子をとって繊維工場を継がなければならなかった。

俺たちが付き合いだして3年が過ぎた頃に、養父に癌が見つかった。養父母は絵里に実家に戻って、婿養子をとるように言ってきたのだ。

養父母から連絡があった日、絵里は泣きそうな顔で俺に抱きついた。

「帰りたくない。雅紀とずっと一緒にいたい」

「ご両親に会って、自分の気持ちをちゃんと伝えたらどうだ?工場なら他に養子をとって社長にすればいいことじゃないか。俺も一緒に付いて行ってもいいよ」

絵里は俺の胸に顔をうずめて考えているようだった。そして、しばらくしてから呻くような声で言った。

「できない」

「できない?」

「私が養子になったとき、これで宮内の血を引いた跡取りが出来たと言いながら喜んでいた、二人の嬉しそうな顔が忘れられない。あの二人の笑顔が、両親を失った悲しみや不安から、私を救ってくれたの。それにここまで育ててくれて、大学まで行かせてもらって、大学を卒業したら実家に帰って工場の仕事をしろというのを、他の会社で働いてみたいという私の我儘を聞いてもらって、今まで自由にさせてもらっていた。そんな恩義を裏切れない」

俺としては何とか引き止めたい。しかし、どんな言葉を発すれば引き止められるのかわからなかった。言葉では引き止められないもどかしさに、俺は絵里を強く抱きしめることしかできなかった。

絵里は養父母と連絡をとりながら、実家に帰る準備を進めていた。

「このサボテン、持っていくか?」

俺がそう聞くと、絵里は静かに首を横に振った。

「それは雅紀が育てて。私が持っていると、サボテンを見るたびに辛くなるから」

それからしばらくして、絵里は実家に帰って行った。歌の「サボテンの花」では、恋人が部屋を出て行ったあと、男もその部屋を出て行く。しかし、俺はこの部屋を出なかった。この部屋を出たら、俺の人生の中から絵里と過ごした時間がなかったことになって消えてしまうような気がしたからだ。だから、せめて新しい恋人ができるまではここにいようと思っていた。しかしその後、新しい恋人は、ひとりもできなかった。


「雅紀は結婚してないんだって?」

「横山に聞いたのか?そうだよ。いまだに独身だ」

「どうして?良い人できなかったの?」

「何人かと出会ったけど、深い関係には発展しなかった。話していても何か物足りなかった。映画の話をしてもありきたりな感想しか返ってこないし」

「私たちみたいな映画オタクは、そうそういるものじゃないんだから、その辺は妥協しなければ」

「そうは思うんだけど、だったら特別な関係にならなくてもいいやって思っちゃうんだよ」

「そうなんだ」

「絵里はどうなんだ?幸せに暮らしているのか?」

「あれから2年くらいして、養父は亡くなったの」

「そうか、ガンだったものな」

「私が戻った時には、養父は覚悟していたようだった。それでも工場の従業員のこともあるし、私と婿養子になる人に、一生懸命会社のことを教えてくれて」

「お養父さんは、それが自分の最後の仕事だと思ったんだろうな」

「だから、私も必死に教わった。それが恩返しだと思って」

「そうか」

「養父が亡くなって5年くらいして養母も体調を崩したの」

「ご主人がいなくなって、気が抜けたのかもしれないね」

「そうかもしれない。病院へ行ったら骨髄性白血病だった」

「白血病って、若い人に多いと聞いていたけど、高齢者でもなるんだ」

「最近は高齢者急性白血病が増えているみたい」

「そうなんだ」

「ある日、お養母さんが私に“すまなかったね”と言うの。私は病気になったことを言っているのだと思って、なりたくて病気になる人はいませんから気にしないでと言うと、そうじゃなくて、この家を押し付けたことと言うの」

「家を押し付けたこと?」

「うん。お養母さんは私に好きな人がいたことを薄々気づいていたみたい。いつまでも子供が出来ないので、やっぱりそうだったのかと思ったらしい。それで、家のために好きでもない人と結婚させて申し訳なかったと言ってくれたの」

お養母さんは絵里の本当の気持ちを知っていたんだ。

「でも、お養父さんは親から引き継いだ家と工場を守るのに必死だった。だからどうしても絵里を跡取りにしたかった。子供を産めなかった私にも責任があるので、それに反対できなかったと、泣きながら謝ってくれた」

お養母さんは、絵里の幸せを奪ったのは、自分に子どもが出来なかったためだと自分を責めていたのか。

「お養母さんは、私がいなくなったら、もう遅いかもしれないけど、せめてこれからは、絵里の生きたいように生きなさいと言ってくれた。私は涙が止まらなかった」

聞いている俺の方も胸が熱くなってきた。

「それでね、そのお養母さんも、一昨年とうとう息を引き取ったの。これで私は4人の親を失ったことになる」

俺は何と声をかけてあげれば良いのかわからなかった。

「今年、お養母さんの三回忌を終えたところで、旦那さんが話があると言うの。旦那さんが言うには、生前お養母さんから自分がいなくなったあと、ひょっとしたら絵里から離婚したいと言ってくるかもしれないと聞かされたらしいの。お養母さんが言うには、もし絵里が離婚したいと言って来たら、申し訳ないが離婚に応じてやってくれないか。その代わり、会社の株はすべてお前に譲るからと言われたということだった。私は驚いた。お養母さんがそんなことを旦那に頼むなんて」

すごいお養母さんだ。しかし、言われた旦那さんはどんな気持ちだったんだろう。

「そして、旦那さんが私に聞いてきたの。離婚したいのかって」

「それで絵里はどう答えたのだ?」

「何も答えられなかった。自分でもどうしたいのかわからなかったし。そしたら、旦那は“わかった離婚しよう”と言ったの。驚いて旦那の顔を見たら、離婚しないと即答しないということは、離婚したいという気持ちがあるということだと言うから、何か言い返そうとしたら、続けて旦那は“本当は他に好きな人がいるのだろ?結婚したときから薄々感じていた。離婚して、そいつのところへ行きなさい。そして、そいつとうまくいかなかったら、ここに帰ってくればいい”って、そう言ってくれたの」

「それで離婚したのか?」

「うん。先月離婚届を出した」

「そうか」

「私、雅紀の部屋に行ってもいいかな?」

「おいでよ。そして、一緒に映画を観よう」

「うん」

「この部屋で初めて観た映画のDVD借りてこようか」

「観終わったあとに、二人して興奮してしまったやつ?」

「そう。興奮もしたけど、良い映画だった」

「それは借りなくていい」

「嫌なのか?」

「それより、本当に雅紀の部屋に行っていい?」

「いいよ。いつでもおいで」

俺がそう言った途端にインターフォンのチャイムが鳴った。

もしやと思い、モニターに走ると、そこには絵里が映っていた。

「絵里、来ていたのか?」

「ずっとマンションの前の駐車場に車を止めて話していた」

俺は解錠のボタンを押した。絵里はエレベーターに乗ったのだろう、電話の電波は途切れた。

俺は、玄関ドアを開けてエレベーターから降りて来る絵里を待った。

絵里がエレベーターから降りてきた。俺の顔を見て絵里は駆けだして来た。俺も絵里に歩み寄る。やっと会えた。お互いにそれを確認するように抱きしめ合った。

部屋に入るなり、絵里がカバンから1枚のDVDをとり出した。それはあの映画のDVDだった。

「これ、どうしたの?」

「買ったの。雅紀との思い出の映画だから、手元に置いておきたくて。雅紀と再会したら、一番最初にこれを観たいと思って持ってきた。だから借りなくていいって言ったでしょ」

「俺は、絵里と初めて映画館で出会ったときの映画のDVDを買っていたんだよ」

絵里が嬉しそうに俺の顔を見た。そして、ふとダイニングテーブルに目をやり、目を見開いた。

「サボテンがある!花を咲かせている!」

「あのサボテンが枯れたから、新しいのを買ったんだ。ちょうど昨日花を咲かせた」

古いサボテンは枯れてしまったが、新しいサボテンは新たな“枯れない愛”の花を咲かせた。このサボテンは、もう枯らしたくないと思った。


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