第31話 龍樹の呪い
「疲れているところをお呼び立てして申し訳ありません」
そう言って、低い机を挟んで反対側に座るベルガ皇子が、瞑目しながら小さく会釈をした。俺も同じように会釈を返し、場の空気に則ってあらかじめカインから言い含められていた心にもないことを言う。
「とんでもございません。他でもない殿下からの御用命ですから」
あれから数日の旅路を経てキヴァニアに戻り、メランたち三名を監獄へ収容した俺たちは、旅と戦いの疲れを癒す為に丸一日の休養日を設けた。
俺がベルガ皇子からの召集を受けたのは、その翌朝のこと。
今日の夕方頃に一人で来て欲しいとのことだったので、仲間には休養日を延長するとだけ伝え、指定場所である少しお高い食事処まで来た。
その店の二階。一般人の立ち入りが厳として禁止されている
内鍵の付いた完全個室のその場所に、俺とベルガ皇子、そして傍らに控える老執事のマディローがいる。
「本当にご苦労様でした。ハルモニアから事のあらましは聞き及んでいます。皆さん、無事に帰還されてなによりです」
「正直に言えば危ないところでした。状況を考えれば、誰一人欠けなかったことが奇跡です」
言うと、皇子は紅茶を一口飲み、そのままカップで口元を隠しながら言った。
「実を言うと、一昨日の皆さんの帰還を僕も遠目に見ていたのです。皆さんボロボロの状態で、エルザさんに至っては防具をすべて無くしていましたよね。それだけでも聞きしに勝る戦いがあったことは明白でした」
「そうですね。特にメランは想定を優に超えるほどの強敵でした。運が悪ければ全滅していました」
我ながら実感の籠った声で言う。
あれほどの魔術師は、大陸全土を探しても数えるほどもいまい。破壊力あるいは殲滅力にのみ限って言えば、間違いなくグリードを越えている。
今になってしてみれば、地下水路で会敵した時も、やろうと思えば市街地ごと吹き飛ばせたはずだ。仮にメランが玉砕前提で動く浅はかな男だったら、今頃キヴァニアは灰の街と化していただろう。
しばし沈黙が流れる。
どうやら皇子から口を開くつもりはないようだ。もしかすると俺の仕草や表情から、その奥に潜む猜疑心を感じ取ったのかもしれない。まるでそれを言葉にして見せろと言われているような気分だ。
俺も紅茶を一口飲み、ふぅと息を吐く。
「……殿下は私の出自をご存じですね? 当然、過去にあった出来事も」
問うと、皇子は静かに瞑目して言った。
「ご両親のことは残念でした」
「では、私が持つ力のことも」
「『龍樹細胞』ですね」
「おそらく殿下はそれを求めていらっしゃる。無礼を承知で言葉を濁さず言えば、手中に収めようとしている」
「厳密には違いますが、そのような解釈で間違ってはいません」
酷く淡々とした、ともすれば機械的にも感じる返答に、俺は無意識の内に伏し目がちにしていた視線を上げる。
皇子は薄い微笑みを湛えながらも、感情一つ滲ませない無感動な表情で俺を見つめていた。
だというのに、真珠のような瞳は依然見惚れてしまうほど美しい。
俺は瞑目することでその誘惑から逃れ、再度問うた。
「その理由を窺っても構いませんか?」
「いいでしょう。貴方は我が皇国の脅威に対し、その命を賭して立ち向かいました。お話します」
そこに老執事のマディローが静かに待ったをかける。
「お待ちくだされ殿下。本当によろしいのですか?」
「皇家に二言はありません。その代わりに僕が今から話すことは今後一切の口外を禁じます。親族友人、近しい人や他でもない私自身に対しても絶対に。お約束頂けますね?」
「わかりました」
皇子は手に持っていたカップとソーサーを机に置くと、姿勢を正して真剣な表情を繕った。
「ヴァリアント皇国の
ベルガ皇子は序列で言えば第一皇子。つまり皇太子だ。現段階では兄弟もいない為、皇位継承となれば彼がその役を担うことになる。
「ですが、一つだけ問題があります」
言いながら、ベルガ皇子は着ていた丈の長いローブを脱ぎ去った。
首から足首までをすっぽりと隠していたローブがなくなると、皇子のほっそりとした身体が露わになる。
しかし、俺の目を惹いたのは簡単に折れてしまいそうな細身の体形ではない。
皇子の服装が、まるで社交界にいる貴族の娘のようだったのだ。
鎖骨あたりが広く空いたエンパイアドレスに、ローブでギリギリ隠れるほどの長いスカート。色彩は薄くそれほど派手ではない。年頃を考えれば大人び過ぎているその服装を見て、俺は脳裏を過った言葉をそのまま口にした。
「……女?」
「そうです。この方が見た目にわかりやすいかと思って着てみました。どうでしょう?」
少しだけ腕を広げてドレスを見せびらかす皇子に、俺は唇を震わせながら答える。
「僭越ながら、よくお似合いです……」
「ありがとうございます」
予想外の出来事に頭痛を覚え、自分でもわかるほど顔をしかめる。その様が皇子の目には滑稽に映っているのか、口元に手を当ててくすくすと笑っていた。
「見ての通り『私』は女です。故に本来であれば皇位継承権を持たない身。ですがこうして性別を偽ってまで、私は『男』として皇太子の座についています。その意味がわかりますか?」
悪戯っぽく問いかけてくる皇子に、俺は眉根を顰める。
ヴァリアント皇国における皇位は通常、皇帝陛下と血の繋がりのある男児に継承される。血縁の近い者から順に継承権が与えられ、最も強い権利を持つのが他でもないベルガ皇子の座する第一皇子の立場だ。
では、性別を偽ってその座に就き続ける意味とは何か。
単に皇家の血を絶やさないという目的であれば、ベルガ皇子に皇位継承権がないことは問題にならない。いずれ婿を取り、皇子が生した子に皇位を継がせることで、皇家の血は脈々と受け継がれていくからだ。
ならば理由は別のところにある。
ベルガ皇子が言っているのは、おそらく慣例の話だ。
言い換えれば、古くから続く伝統。ヴァリアントの皇位は必ず男児が継ぐものであるという一種の固定観念である。
答えを待つ皇子に、俺はできるだけ簡潔にその旨を伝えた。
「女性が皇帝として即位することに不満を抱く者がいる、でしょうか?」
「惜しいですが、おおむね正解です。初の女性皇帝ともなれば反発心を抱く者もいましょうが、それ自体はさほど問題ではありません。最たる障害は国家の内側。序列が低くとも継承権を与えられる立場にいる者は黙っていないのです」
先も述べたが皇位継承権には順位があり、規則上、現皇帝の四等身以内すべての男児に与えられる。
故に、本来継承権を持たないベルガ皇子の立ち位置は非常に危ういのだ。
「……つまり殿下は、
そう訊くと、皇子は「その通りです」と呟いて満足そうに微笑んだ。
しかし、だ。それでも疑問は残る。
「差し出がましいようですが、御父上であられる皇帝陛下はまだお若い。皇位簒奪を恐れているというのであれば、新たに男児の世継ぎを儲ければよいのでは?」
「それが可能であるならそうしていますが、できぬ理由があります」
「理由、ですか?」
ベルガ皇子は椅子に座ったまま前屈みになり、扉の方をちらりと見た。
指先でくいくいと促され、俺も身体を倒して向かい合う。より近くに迫った真珠のような瞳を見つめると、皇子は唇の前で人差し指を立て、絶対に聞かれてはならないと一層声量を落として言った。
「我が父オルガ・オン・ヴァリアントは私が生まれた直後に病に罹りました。睾丸の病気です。このことは公には発表されず内密に処理されましたが、治療の後遺症で子供を作れなくなりました。いわゆる男性不妊症です」
「……なるほど」
俺は身体を起こし、言う。
「皇位簒奪を防ぐには殿下自ら即位するしかないというわけですか」
現皇帝唯一の子供が女であり、その上新たに男児を儲けられないことが露見すれば、序列の低い者による皇位簒奪は間違いなく起こる。
それを防ぐにはベルガ皇子自身が皇帝の座に就かなければならない。
俺の言葉に皇子はこくりと頷いた。
「ええ。どの道婿を迎え入れる必要はありますから、一時凌ぎのお飾り皇帝にはなれません。誰にも有無を言わせぬ、絶対的な権威としての即位が
皇子はそう言うと、傍らのマディローに小声で何かを告げる。老執事は一礼すると部屋から退出し、約一分後に一冊の本を携えて戻ってきた。
その本の装丁には、俺も見覚えがあった。驚きがそのまま口を突いて出る。
「なんでその本がここに……」
それは俺が子供の頃に魔物の生態について勉強する為、記述を空で言えるようになるまで毎日毎日繰り返し読み込んだ書物。
俺の祖先スカライール・フォレスティエが遺した、魔物研究の記録文書。
これはその原本だ。
「使いの者に頼んでフォレスティエから取り寄せました。ちゃんと許可を得て持ち出していますので、その点はご安心を」
皇子は原本を受け取ると、壊れ物に触るような手つきで
そしてとある項で手を止めると、俺が読みやすいように机の上に広げて見せた。
「龍樹は封印されただけで、今も生きています。そしてその封印はグラディオール・ベン・ベネディクタとスカライール・フォレスティエの両名によって行われました。私はこの封印を解き、龍樹の力を皇家の支配下に置きたいと考えています」
「……正気ですか?」
言葉を選ぶこともせず、思ったままを口にしてしまう。もはやしまったとすら思わなかった。それだけ突飛なことを皇子は言ったのだ。
しかし皇子は一切ぶれることのないまっすぐな目で言う。
「正気も正気です。先ほども言いましたが、私は圧倒的権威と共に皇帝の座へ即位せねばならない身。女だからと侮られるわけにはいきません。他の追随をけして許さぬ圧倒的武勲を立て、名実ともに皇国の象徴となることで、初めて私は誰からも泥を投げられることのない皇帝になれるのです」
その言葉には揺るぎない意志が込められていた。
嘘も冗談もない真摯な瞳。皇子は本気で龍樹の力を手中に収めようとしている。
しかも『龍樹細胞』のような模造品ではない、正真正銘『
俺は息を呑んだ。
確かに、方法がないわけではない。
グラディオールとスカライール、両者の血脈を用いれば、龍樹を隷属化させること自体は可能だ。
俺は眼前の本に視線を落とす。そこにはこう記されている。
『我々は龍樹の呪いを受けた。この呪いは契約としても作用する。我々の血脈を継ぐ子孫らの中で、この呪いを発現した者だけが、龍樹の力を操る資格を有することになる』
俺は言葉を失う。と、皇子の瞳にふと陰が差した。
「ただし、時間はあまりありません」
「……何故です?」
ようやく出た言葉は、他愛もないそんな言葉だった。
「私も半年後には十一歳になります。今はまだ中性的な容姿としてごまかしも効きますが、あと数年もすれば私が女であることは白日の下に晒されることでしょう。それまでに目的を達成できなければ誹りは免れません。皇家の権威も失墜することでしょう」
皇子は膝の上で両手を握り込んだ。俺にはそれが無意識の表れに見えた。
強い不安の表れ。どれだけベルガが大人びて見えようが、彼女はまだ十歳の子供。皇家の人間として帝王学を学び、大人たちに混じって知恵や策謀を巡らせることはできても、感情の抑制はそう簡単にできることじゃない。
誤解を恐れず言えば、いますぐ手を差し伸べてやりたいと思った。
細くて華奢な手を取り、真珠のような瞳を見つめ、「俺が力になる」と言ってしまいそうになる。
ただ、やはり龍樹の復活というのは駄目だ。
龍樹の力の一端をこの身をもって知っている俺は、脳裏で最大限に鳴り響く警鐘を無視することはできない。
あれを解き放つという事は、すなわち世界を壊すという事だ。
仮に龍樹を復活させて、もしも制御できなかった場合、英雄亡き今、人類は今度こそ破滅する。
その責を一身に負えるほど、俺は勇猛ではない。
「……事情は分かりました。ですが協力はできません。龍樹の力なんて人の身には余る」
「何も龍樹の力を宿してほしいわけではありません。エルザさんは封印を解くだけで良いのです」
皇子は縋るような声音で言う。しかし俺は首を横に振った。
「それでもです。殿下も『死滅渓谷』のことは知っているでしょう。龍樹はたった一度の咆哮で大陸を横断する巨大な渓谷を作ったんですよ。その結果、九つの都市と三十を超える村落が一瞬で燃えあがり地の底に沈んだ。そんな力を使えばそれこそ皇家の権威は失墜します」
思わず、恐怖政治でもするつもりか、と言いそうになった。もしも口にしていれば失言どころでは済まされない。
しかし、言葉にはせずとも、そういうことを言っているのだとは伝わったらしい。
現に皇子は、ここにきて初めて苦い顔をした。
俺は深く息を吐いて、急く気持ちを落ち着かせると、改めて口を開いた。
「龍樹の力などに頼らずとも、真っ当な方法で功績を立てればいいのです」
「ですがそのような方法……どうすれば」
深く傷ついた顔を見せる皇子。
瞳は潤み、声はかすかに震えている。
皇族とはいえ子供にそんな顔をされては、さすがに黙っていられない。
「何も戦場で戦果を上げるのだけが武勲ではありません。殿下は能弁家でいらっしゃる。その話術を駆使して和平への道を切り開くのも、十分比類なき武勲と言えるのではありませんか?」
我ながら何とも勝手なことをつらつらと語るものだ。たとえそれが建前であろうと、政治家ならば誰であれ停戦協定と講和交渉を前提として動く。こんなこと俺のような門外漢に言われるまでもないだろう。
しかし、そんな陳腐な慰みでも、皇子の陰りを少しは晴らせたようだ。
「剣は取らず弁で戦えという事ですか」
「まぁ、そんな感じです。私も協力するのが吝かというわけではありません。むしろ私などが力になれるというならば喜んで手を貸しましょう」
「そうですね……エルザさんの言う通り、私は少し逸りすぎていたのかも知れません」
皇子は胸に手を当てながら伏し目がちにそう言った。
そしてすっと静かに立ち上がり、机の周りを歩いて俺のすぐ近くに立つと、膝に置かれた手を取って両手で優しく包み込んできた。
ふと目を上げて視線を合わせると、皇子は年不相応の蠱惑的な表情で俺を見ている。
「私もまだまだ未熟者ですね。ですが傭兵として経験豊富なエルザさんの力をお借りできるのであれば、これ以上に心強いことはありません」
指先から伝わる熱いくらいの温もり。そのまま子供の力できゅっと握り込まれる。
「もちろん無償でとは言いません。近衛の屋敷はこのまま団の皆さんと使ってください。ハルモニアも使用人として駐在させます」
もう片方の空いている手を重ね合わせ、俺は小さく頷いた。
「不束者ではありますが、いつでも力になります」
「はい、よろしくお願いします」
皇子は改めて俺の手を両手で包み込むと、あどけなく微笑んだ。反射的に俺も笑顔になってしまい、慌てて真剣な表情に戻す。
それに皇子はきょとんとした顔をすると、綻ぶようにはにかんだ。
「気にすることはありません。素敵な笑顔ですよ」
「……お褒めに与り恐縮です」
身体が芯から熱くなるのを感じる。十歳の少女を相手に照れるなど我ながら情けない限りだ。
繋いだ手をどちらからともなく離す。すると、皇子は老執事の方を向いて何やら目配せをした。一礼したマディローは卓上の原本を丁寧に閉じて小脇に抱えると、静かな足取りで部屋を退出する。
一歩退いた皇子に促され、俺も立ち上がる。
退出の間際、袖をくいと引かれた。振り返り、口元に手を添える皇子に膝を曲げて耳を貸すと、耳朶をくすぐる綿のような女の声で言われた。
「親族以外で私が女だと知っているのは貴方だけです。……頼りにしていますね」
その声に俺は息を詰まらせ、緩慢な動きで足を伸ばす。
相手は十歳。何を動揺しているエルザ・フォレスティエ。
俺は熱を持って赤くなっているであろう耳を指先で触れながら、ぎこちない笑顔を作ってみせた。
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