第29話 フォレスティエの血

 身体に付いた血を使って、枝垂れた前髪を掻き上げる。

 心臓の鼓動を模すようにジンジンと痛む身体。吹き付ける風が傷口を撫でると、冷たい刃に斬られたように感じる。

 ついさっきまでは、こんな痛みさえ感じていなかった。


 腹に溜まった息を吐き出し、前へと踏み出す。


 皆が倒れた後も、アリアーレとユーリスだけは立ち上がった。

 彼らは、他でもないメランが無能とあざけった者らだ。


 しかしどうだ。奴は慧眼だったか?

 答えは言うまでもなく否だ。二人がけして諦めることなく、最後まで戦う意志を見せたからこそ、ハルモニアさんの救援が間に合って、俺はこうして生きている。


 確かに彼らは未熟者だ。

 圧倒的に経験が不足しており、戦場に立つには資格の足らない者たちだ。


 されど、彼らは彼らなりの方法で力を示した。

 メランの言うような足手纏いの無能などではけしてない。


 そのことを、奴には身をもって知ってもらわねばなるまい。


 二人の近くまで来ると、両者はほとんど同時に俺の方を見た。

 片や小さく口角を上げ、片や苛立ちながら眉根を寄せる。その内、口角を上げた方。ハルモニアさんは乱打でメランの体勢を大きく崩すと、蹴りを入れながら身を翻して距離を取った。


 そのわずかな隙を埋めるように、俺は地面を踏みしめてメランの腹を掬い上げるように殴りつける。

 辛苦に歪んだメランの相貌を見て、もう一発、渾身の突き上げ放った。


「がっ……!」


 顎を下から打ち抜かれ、メランの身体が宙に浮く。

 そこへ、ハルモニアさんが蹴りによる追撃を見舞う。身体を独楽こまのように回転させて遠心力を生み出し、浮いたメランを捕らえると、身体がくの字に曲がる勢いで地に縫い付けた。


 当然、ここで手を休めることはない。倒れたメランの顔を目掛けて拳を振り下ろす。

 しかしメランはそれを寸でのところで躱し、詠唱した。


「【アディス】!」


 超短文の詠唱により生み出された黒い瘴気の渦。

 先ほどまでの魔法の挙動を見る限り、おそらく何らかの力場を操る魔法だ。つまり魔法そのものの勢いや出力によらず、瘴気に触れれば問答無用で吹き飛ばされる。


 俺は短く息を吐いて腕を振り上げ、瘴気を拳で受け止めた。


 身体が浮かび上がりそうになるのを堪え、渦巻く瘴気もろとも押し返す。

 凄まじい反発に腕の肉と骨が悲鳴を上げている。このまま続ければ折れてしまいそうだ。しかし俺はそんなことお構いなしに、もう一度息を吐いて腕を振り抜いた。


「馬鹿な……っ!」


 驚愕に歪んだメランの顔に拳撃を叩き込む。

 正規の方法ではなく力業で指向性が反転された魔法は、制御を失って四方八方へ拡散する。俺とメランを中心に爆発が起きたように衝撃波が広がり、近くにいたハルモニアさんがその余波を受けたのが見えた。


 幸い、ハルモニアさんは前傾姿勢で重心を傾けることで転倒を防いでいる。指向性が乱れたおかげで衝撃はそれほど強くなく、足裏で地面を滑るように距離を離されただけだった。


 そして爆心地。両腕を交差させて俺の一撃を防いだメランは、重ねられた腕の隙間から狡猾な笑みを覗かせる。


「エルザ・フォレスティエ。魔物生物学の権威であるフォレスティエ家の末裔か」


 含みのある表情で愉快そうに言いながら、メランは口の端をかすかに歪めた。


 フォレスティエ。

 それは過疎化の進む辺境の村の名であると同時に、皇国民であれば誰もが知るとある人物の氏族名でもある。


 英雄グラディオール・ベン・ベネディクタにとって、唯一の盟友。

 そしてこの俺、エルザ・フォレスティエの先祖でもある学者の名前だ。


 名は、スカライール・フォレスティエ。

 存命だった時代から百年以上経った今でも、魔物生物学においては第一人者とされている傑物である。


 しかし、彼の名が広く知られている理由は、英雄の盟友としてではない。


 かつて世界に混沌と恐怖を齎した最強の魔物『龍樹ジュナルナーガ』。

 英雄との決戦の最中、この世界にを残した彼の竜は、現在も多くの人々に恐れられる畏怖の対象だ。


 生きた災厄。あるいは裁きの権化。

 終末論に憑りつかれでもしていなければ悪夢そのものでしかない存在を、スカライール・フォレスティエは救済を齎す神として、信仰の対象としたのだ。


 いつの世も、破壊を齎すだけの存在はけして受け入れられない。

 故にスカライールは、おぞましい思想の持ち主として迫害された。罵詈雑言の嵐と大勢からの容赦ない暴力を受け、住む場所まで追われ、やがて辺境の地でわずかな信奉者と共に小さな村落を築いた。


 それがフォレスティエ。

 そして村の名前ともなった彼の氏族名は、いつからか狂信者の代名詞としても知られるようになった。


 メランは俺の腕を払いのけ、絡み合いながら俺を足蹴にして立ち上がる。素早く距離を取り、塵を払うように両手を叩き合わせた。


「しかし驚いた。ただの拳がまるで呪砲の一撃ではないか。たゆまぬ研鑽を積まねば至れん領域だ。誇るがいい、エルザ・フォレスティエ」


 メランは俺の身体をまじまじと見て、不気味にほくそ笑む。

 わざとらしく俺の名を強調して呼ぶメランに、俺は目端を窄ませた。


「帝国の傭兵がどうして俺の名前を知っている?」


 俺の問いにメランは嘲るように鼻を鳴らす。


「そう驚くことでもあるまい。ジル・クライヴ、クルト・マクギネス、ハーレイ・スコデルフィア、ロクサーヌ・デルフィルケンなど、脅威となりうる傭兵の情報は常に収集している。貴様を知っているのは単なる諜報活動の一環だ」

「その割に俺の顔は知らなかったみたいだな」

「クルト・マクギネスは私が知る限り最も用心深い男だ。打てる手をすべて出し尽くしても本人の似顔絵を入手するので精一杯だった。だが、奴一人で管理できる情報にも限度はある。特に貴様の過去は興味深い」


 俺の顔を指し、メランは続ける。


「貴様、六つの頃に両親を殺したそうだな。書面の記録には残されていなかったが、不幸な事故だったと聞く。さぞ辛かっただろう」

「……っ!」


 覚悟はしていたが、改めて言葉にされたことに息が詰まった。


 俺の名前はどうしても出自を明らかにしてしまう。だから名前を知られた時点でその事故と事故の詳細に辿り着くのは時間の問題だ。


 奴の言う通り、俺は六つの時に両親を殺している。

 そして確かに事故でもあるのだ。

 魔物に襲われ死に瀕した俺は、制御不可能な力に飲まれて、その場にいた両親を魔物ごと嬲り殺した。


 とっくに傷は癒えたと思っていたが、存外動揺は隠せないものだ。


「人の過去を暴いて楽しいか?」


 我知らず内に怒りの滲んだ声音で問うた。メランはそれに首を小さく左右に振って答える。


「まさか。私はアーテルのような異常快楽主義者ではない。むしろ貴様の境遇を憐れんでさえいる。六歳の子供が己の手で親を殺すなど、考えるだけでも痛ましい」


 そう語るメランの表情や声音に嘘はない。同情しているのは本当のようだ。

 しかし、奴はすぐに表情を険しくし、すっと目を細めた。


「とはいえ、貴様は有能だ。あの無能と違って見逃すには厄介極まりない。故にここで排除させてもらおう」


 言うと、メランは魔力の集積を始めた。

 使う魔法が超短文詠唱であるが故の傲慢な振舞い。俺はすぐさま地面を蹴ったが、それよりも先にハルモニアさんがメランに蹴撃を見舞った。


「呑気に会話している場合ではありません!」

「っ、弁えん女だ!」


 目にも止まらぬ連続蹴りに、メランの腕に嵌まった魔晶が遂に砕ける。


 舌打ちをし、片腕を犠牲にしてハルモニアさんの蹴りを強引に防いだメランは、片足を上げて軸が不安定になっているハルモニアさんに向けて黒い瘴気を放つ。


「させるかっ!」


 だが、俺の昇拳がメランの腕ごと掬って顎を打ち抜いたことで、瘴気の渦は天空へと放たれ、あえなく不発に終わる。

 顔を苦悶に歪め、メランは裂帛する。


「ぐっ――だが甘い! 【シェオル】!」


 それは俺たちを全滅寸前に追い込んだ極大の火炎魔法。


 先程とは比べるべくもない膨大な魔力の昂ぶり。

 膨れ上がった魔力はやがて眩いほどの赤に変わり、すべて焼き尽くす灼熱となって放出される。


 触れられるほど近くにいた俺とハルモニアさんの姿は、瞬く間に炎に飲まれて見えなくなった。


「あ、ぐぅ……っ!」


 目を開けていられないほどの凄まじい熱。肌が一瞬で焼け焦げる。

 さっきはミーティアの障壁越しにこれを受けた。しかし今は障壁がなく、指向性が補助されている分、威力も桁違い。凌ぐのは至難を極める。


 しかし、耐え抜かねばなるまい。

 未熟な二人が身をもって示した信念に、俺は応える義務がある。


 魔力は有限。魔法は持って数秒。

 吹き付ける炎の中で耐え続け、やがて熱が過ぎ去った。


 同時に目を開け、一歩踏み込む。

 すぐそこに、メランの恐怖と驚愕と怒りに満ちた表情が見えた。


「貴様、その身体……っ!」


 所々が樹皮に覆われている俺の身体を見て、メランは絶句する。


 それはスカライールが遺した龍樹の呪い。フォレスティエの血の宿命。

 スカライールの血を受け継ぐ者の中で『適した人間』にのみ発現する力。


『龍樹細胞』。

 肉体に致命的な損傷を負い、そこから、一時的に龍樹の呪いが肉体に宿り、呪受者に龍樹の力の一端を強制的に発現させる。


 脳裏に蘇る悔恨の記憶。

 力を抑えきれずに暴れる俺をどうにか宥めようと、血を流しながら手を伸ばしてくる両親を、俺はこの手で殺した。


 あの時、父も母も俺自身も、俺が呪いを受けているとは思っていなかった。

 いや。思ってはいても、そうせずにはいられなかったのだろう。


 両親はただ我が子を救おうとしただけだ。

 龍樹の力が自分たちに危害を加えるかもしれない――たとえそんな考えが過っていたとしても、我が子の命には代えられないと。


 全てが終わった後、親戚や村の人は、誰一人として俺を責めなかった。

 お前は託されたのだから、両親の分まで精一杯生きなさいと言われた。


 故に俺は誓ったのだ。呪いさえ力に変えて、天へ昇った両親に恥じぬ立派な人間になろうと。

 そして何よりすべてを守ると、俺を慕ってくれる少女に誓ったのだ。


「【アディ――】!」

「遅い!」


 メランが口を開いたのを見て掌底、顎を打ち抜いて詠唱を妨害する。

 次いで、鳩尾に正拳、喉輪、顎に昇拳アッパー、肋骨に側撃フック。『龍樹細胞』によって底上げされた身体能力に物言わせた連撃の嵐を叩き込む。


 さらにそこへ、ハルモニアさんの追撃が加わった。

 彼女は焼け落ちてほとんど襤褸切れ状態の布を纏いながら、炎を浴びたとは思えぬほど綺麗なままの身体で舞う。


 彼女の蹴りで仰け反ったメランの前髪を掴み、一本背負い。

 奴の身体を地面に叩きつけると、反動で大きく跳ね上がった。ハルモニアさんと視線を交わす。一瞬の意思疎通。宙に浮かんだ奴の身体をけして地面に帰すまいと、二人で連携して連撃ラッシュを敢行した。


 ハルモニアさんの脚が月輪を描きながらメランを蹴り上げる。

 そして、『龍樹細胞』で覆われた俺の拳が、奴の頬を精確に捉えた。


 拳打の衝撃で腕を覆った木片が飛散する。

 メランの身体は爆速の弾丸が如く吹き飛び、地面を削り取りながら転がった。


「捕まって!」


 ハルモニアさんに言われるがまま差し出された手を取る。

 彼女は自身の身体を軸として旋回し、俺の身体を駒のように振り回した。

 十分な遠心力が付いた時点で狙いを定め、お互い同時に手を離す。


 狙うはメラン。

 空を割いて突貫し、樹皮で固めた己の身体を砲弾に見立て突撃する。立ち上がったばかりで回避行動のとれないメランは、不可避の砲撃を全身で受け止める事となり、慣性に従って背後の岩肌に激突した。


「ごは……っ!」


 胃液と血反吐を噴水のように吐き出すメラン。

 尻餅をつく奴を見据え、俺は右腕に『龍樹細胞』を集中させた。


「こいつで締めだ――ッ!」


 増殖する樹皮と木片で肥大化させた樹拳。

 俺は渾身の咆哮と共にそれを振り下ろし、メランが背を預ける岩ごと打ち砕いた。

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