第18話 SIDE:OTHERS 渦巻く思惑

 透き通るほど薄いカーテンを開け、少女は夜空を満たす満天の星空を見上げた。

 窓を開いて、吹き込む風に瞼を閉じる。

 乱れた髪を押さえながら、窓の縁に手を掛け、少女は年頃に似つかわしくない物憂げな吐息を漏らした。


 ヴァリアント皇国は領地のほとんどが温帯地域。中でもキヴァニアは地形的な影響もあって夜間には穏やかな陸風が吹く。

 とはいえ、陽も沈み久しい夜半ともなると、肌を撫で付ける風は酷く冷たい。


 少女は絢爛な寝台に放ってあったストールを肩から羽織り、そのまま羽毛布団の上に腰を下ろした。


「残された時間はそれほど多くない……」


 と、寝室の戸が三度叩かれる。少女は首だけで振り返り、短く「どうぞ」と声を掛けた。

 金具の軋む音が鳴り、姿を現したのは片眼鏡モノクルを掛けた老執事。

 老執事は開かれた窓を目敏めざとく見やると、ほんの微かに目端をすぼめた。


「殿下。今宵の夜風はお身体に障ります。どうかご自愛くださいませ」

「寝苦しいのです。少しくらい構わないでしょう」


 殿下と呼ばれた少女は寝台から降りると、反対側にある一人掛けの座椅子に腰を下ろした。


「それで、頼んでいたものは手に入りましたか?」

「こちらに」


 老執事は革で装丁された古い本を差し出した。

 色合いと質感からして、おそらくへびわにの革。所々が薄くひび割れていていることからも、この本が作られてからかなりの歳月が経過していることが容易に見て取れる。


 それでもこの本には、汚れや破損などはほとんど見受けられない。日頃から丁寧な手入れと丁重な扱いをされてきたのだろう。

 老執事から薄手の手袋を貰う。皮脂の付着防止用だ。

 過去、この本に携わった全ての人に倣い、壊れ物を扱うような手つきで表紙を捲る。


「これが原本ですか。古さも然ることながら、大きく、分厚く、そして重い」

「足の速い伝令使に仰せつけました。僻地フォレスティエとの往復には通常二十日ほど掛かりますが、此度はわずかに六日。この分では休息もろくに取らず、夜間進行を敢行したのでしょうな」

「実に良き計らいです。その者を近衛の候補に据えておきましょう」


 紙を捲る手がとあるページで止まる。

 まるで写像かと思うほど精密に描かれた竜の一枚絵。これを描いた者は相当巧緻こうちな指先を持っていたに違いない。今にも動き出してしまうのではないかと錯覚するほどのその絵は、少女の意識を殊更強く引き付けた。


 隣の頁には、その竜についての解説が載っている。

 書き手が必死こいて癖を矯正したような、少し歪な正字体。愛おしくも思えるその文字を上から指でなぞり、少女は口に出しながら読み上げる。


「皇紀八〇四年。フォレスティエ郊外の洞窟内で、変異直後とみられる幼体の竜を発見。外見的特徴から変異前の動物は土竜もぐらとみられる。発見時すでに負傷状態。蜥蜴とかげ以外の竜種は貴重である為、これを介助。以後、成体に至るまでを継続観察する」


 少女は静かにほくそ笑み、続ける。


「やはり原本は良いですね。何度も筆写され簡略化された模造品では記憶を補完する参考書程度にしかなりません」

「文字を読むだけでは賢者にはなれませんからな。それに歴史書というものは往々にして恣意的な編纂へんさんを受けるものです」

「父上が折に触れ言っていました。知恵者はけして賢人足り得ないと。まさにもののあわれですね」


 少女はさらに頁を捲る。

 捲る度、既知や未知を問わず、様々な魔物の生態が記録されている。

 魔物、幻獣、精霊、そのどれもが少女にとっては興味深く、もしも許されるならば朝起きて夜眠るまで食事も取らずにずっとかじりついて読んでいたいと思うほどだった。


 しかし、少女はそれが許される立場にない。

 湧き上がる欲求に蓋をして、少女は目的の頁を見開いた。


 そこに記されているのは、樹木の体躯を持つ大柄な竜。

 注釈によれば、全長は約一五〇m。外皮は鋼鉄よりも固く分厚い樹皮のような鱗で覆われており、身体の至る場所から生えている蔓のような触手を介すことで、大地に沈殿した魔力をことごとく吸い上げる力もあるらしい。


 その名は『龍樹ジュナルナーガ』。


 かつて世界に天変地異を齎し、人々を災禍に陥れた竜。

 そして、英雄グラディオール・ベン・ベネディクタによって史上最強の魔物の名でもある。


「英雄グラディオールが龍樹を征伐したというのは便宜上の嘘。真実はこの本の著者が意図的に隠した。故に現在に至っても彼の竜は健在。問題は――」


 思案するようにそう呟いて、記録を読み解いていく。

 さほど時間も掛からず、求めていた記載は見つかった。

 筆写された龍樹の記録は、何度も何度も繰り返し読み続けた。すでに暗唱できるまでなっている少女にとっては、見覚えのない文章を探すだけの簡単な仕事だ。


「ありました。……なるほど」


 少女は端正な顔に薄い微笑みを張り付ける。

 それはまるで大人に悪戯を仕掛けてほくそ笑む悪童のようだった。

 そんな年相応のあどけない表情を見て、老執事は父性に近い感慨を覚える。従者としては穏やか過ぎる声音になったのは、おそらくそのせいだろう。


「お気に召しましたかな?」


 少女は唇を結んで口角を吊り上げ、ゆっくりと本を閉じた。


「それはもう。あとは『彼』の覚醒を促すだけですね。まぁ、それが一番の難関ではあるのですが」

「覚醒の手順は、間違いないのでしょうか?」


 その問いに、少女は背もたれに身体を預けて小さく唸る。


「特に筆写と異なる記載はありませんでしたし……もしかすると彼ら自身も気づかなかった要因があるのかもしれません。次はその手掛かりを探りましょう」

「何から手を付けましょうか?」

「さしあたっては情報の収集をお願いします。特に文献にも残されていないような人々の口伝くでん。フォレスティエにまで手を伸ばした以上、これ以上の記録媒体はどこにも存在しないでしょう」

「畏まりました。では、そのように」


 一礼した老執事に、少女は思い出したように「ああそれと」と付け加えた。


「ハルモニアにも伝令を。彼らに同行し、状況をつぶさに観測し記録するようにと」

「それは、どの程度に?」

「全てです。会話の内容、個人の取った行動、視線や仕草、俯瞰してみる感情の動きなど取捨選択せず全て。観測可能なあらゆるものを記憶と記録に残しなさいと」

「畏まりました」


 再び一礼すると、老執事は窓の方へと歩んだ。音を立てぬよう静かに窓を閉じ、カーテンで月夜を遮る。

 そのまま振り返り毛布を下げると、「殿下」とまるで急かすように短く告げた。


 まだまだ起きていたい気分だったが、老体をあまり困らせるのも悪いかと、少女は観念したように寝台に入る。


 しかし人体とは不思議なもので、起きていたいという気分とは裏腹に、冷えた身体が柔らかな羽毛の感触で包まれると一挙に睡魔が襲ってきた。


 少女の意識は徐々にまどろんでいく。

 かすかにぼやけた視界の中で老執事が目尻に皺を作り、柔らかく微笑んだ。


「おやすみなさいませ、ベルガ殿下」

「おやすみなさい、クリス」


 老執事が部屋を後にすると、少女の意識はすぐに夢の世界へと落ちて行った。

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