第10話 歪んだ憧憬
キヴァニアに帰還し、協会で納品作業を終える頃には、街から人の気配は消えてしまっていた。どこかで飲んでいた酔っ払いが道ばたで伸びているくらいで、街往く人は一人もいない。
宿に戻ろうかと思ったのだが、ふと気になって、アリアーレの職場に足を運んだ。
店はすでに閉まっていたが、店内にはかすかに明かりが付いている。
客がいるような雰囲気ではない。喧騒どころか話し声や物音ひとつ聞こえてきやしないのだ。であれば従業員が残って作業しているか、あるいは……。
恐る恐る店内を覗いてみると、カウンター席に人影があった。
「ウソでしょ……」
嘘でしょではなくウソでしょ。稀にうそでしょ。どうでもいい。
思わず呟いてしまった言葉に、人影が振り向く。
「あ、エルザさん!」
昨日とはまた違う華やかな服装に身を包むアリアーレが、小走りで駆け寄ってくる。
なんとなく、いるかもしれないと思ってはいたが、実際にその姿を目にすると心臓が口から飛び出そうなくらい跳ねた。
どこの店も閉じているような時間帯に、洒落た格好の女の子がひとり。
普通なら危ないなと感じる筈なのに、むしろこっちが恐れ戦いている。
しかも、詳しく時間を決めていなかったとはいえ、誰がどう見ても遅れてやってきた俺に文句の一つも言わず満面の笑みを浮かべている。
「そろそろいらっしゃると思ってました。夕食はまだですよね。作りますから、座ってください」
アリアーレは俺の手を引いてさっきまで座っていた席に座らせると、自身は厨房側に回り、夕餉というには遅すぎる食事の支度を始めた。
エプロンと頭巾を着け、訊ねてくる。
「お酒飲みますか?」
「じゃあ一杯だけ」
「はい」
「そうだ、弁当。美味しかったよ」
「ほんとですか? ふふ、嬉しい」
口元に指をあてて照れながらはにかむアリアーレ。
弁当を作ってきたと言われた時は心底から恐怖を感じたが、こうしてみる分には可愛らしい少女である。それが何故あんな頭のおかしい子になってしまったのか。真相究明が待たれる。木々の生い茂る
下らぬことを考えていると、彼女はくすっと笑って言った。
「それにしても大変でしたね、急遽遭難者の捜索をすることになっちゃうなんて」
「……なんで知ってるんだ?」
まさか尾行していたのではあるまいな、と思ったが流石に違った。
「夕方頃来たお客さんが話してました。エルザさんが見つけてくれたんだからいいじゃないっすかーって、若い男の傭兵さんが。なんだか険しい顔した男の人に怒られてましたね」
「あぁ、たぶんアマナだな」
っすっす言う若い男の知り合いならアマナしかいない。おそらく団長に怒られでもしていたのだろう。権限のない者が勝手に外部の人間に協力を頼んだのだから当然だ。
まぁアリアーレの口ぶりからして、アマナにはあまり反省の色がないようだが。
注いでもらった酒を一口飲み、うぅぅ、と唸り声を上げる。
さほど経たぬ内に、豪勢な料理が目の前に並べられた。なんだか早いなと思っていたら、それが表情にでも滲み出ていたのか、あぁ、と前置きしてアリアーレは言う。
「仕込みはしておきました。エルザさんが来たらすぐに出せるよう」
「なんか、悪いな。遅れたのこっちなのに」
なんなら最初は来ないつもりまであったのに。
そんな俺の心中など露知らず、アリアーレはエプロンと頭巾を脱いで隣に座った。
「気にしないでください。さあ、どうぞ召し上がってください」
「ああ。……うん、うまい」
ハーブと一緒に煮込まれた肉は香りもよく非常に柔らかい。酒ともよく合う。
「よかった。好きな味変わってなくて」
俺が食事をとる間、アリアーレは顎肘をついてこちらを見ていた。
時折俺も横目で彼女を見るが、その度にふふっと笑みが零される。かわいい、かわいいが、やはり怖い。
何が怖いかって、おそらく彼女は、俺の困惑を察した上でこの態度を取っているということだ。
昔に俺と彼女が会っていることを覚えていない――いや、そもそも会ったことはないと俺が確信していることに、彼女は気づいていると思う。
そうでなければ、彼女の態度は不自然すぎるのだ。
昨日の夜、アリアーレに面識の有無について尋ねた時、彼女は迷いなく会ったことがあると断定した。それに俺が懐疑的な様子を見せると、一切の疑念を抱くことさえなく、今と容姿が違う、当時は兄の背に隠れていた、などと理由を並べ、話の辻褄を合わせようとした。
はたして、そんなことがあり得るだろうか。
成長による容姿の変化はともかく、兄の背に隠れていた引っ込み思案というだけで、人の記憶から綺麗さっぱり消え去るというのは考え難い。というか、その気質が理由となって印象に残り易くすらあるはずだ。
だが、俺の記憶の中には、彼女の姿は一度も登場しない。
しかし、アリアーレは、まるで旧知のように振る舞う。
俺は彼女に味の好みなど伝えたことはない。というか、誰を相手にしたってそんなことをわざわざ言葉にして伝えたことがない。
なのに、彼女は知っている。俺が月桂樹の葉で味と香り付されたラム肉が好きだということを。
食べ終えると、彼女は再度厨房側に回って食器の後片付けを始めた。
やはり、訊いておくべきだろうか。
俺は逡巡し、食器を棚に戻す彼女の背に声を掛けた。
「なあ、ちょっといいか」
「なんですか?」
「昨日も一回言ったけど、やっぱり俺たち会ったことないよな?」
言うと、アリアーレは笑顔のまま黙りこんだ。
すとんと脱力した腕がぶら下がり、少しだけ目を伏せると、彼女はつかつかと歩いて俺の後ろに立った。
伴って、俺も後ろを向く。
依然として笑顔のまま。されど纏う空気はしんと冷たく。
アリアーレは俺の顔をそっと優しく両手で包むと、口づけでもするのかと思うほど顔を近づけてきた。ふわりと甘い香りが漂い、彼女は囁くような声音で言った。
「そうですね。実は会ったことないんです。私、嘘を吐いてました、すみません」
「だよな……いた記憶がない」
顔近いなぁとか、良い匂いだなぁとか、声怖いなぁとか、色々な思考が脳裏を過る。
ただ、言質は取れた。
やはり俺とアリアーレに面識はなかったようだ。
まぁ、それはそれで他の問題があるのだが、今はいい。恐怖心の源である疑問が解消され、俺は安堵の息を漏らす。
だが。
「でも、エルザさんのことは知ってますよ。ずぅっと前から知ってます。子供の頃に助けて貰ってからずっと、貴方は私の英雄ですから」
「……心当たりが」
「ないと思います。それも知ってます。だってあの時のエルザさんは魔物の群れを葬っただけですから」
触れるほど近くにある藍色の目に、引き込まれそうになる。
この距離だ。生唾を飲む音が聞こえでもしたのか、彼女の左手の親指が、そっと俺の首筋を撫でた。
「覚えてますか。十一年前、皇都で起きた魔物の大量発生のこと」
「……過激化した当時の和平派が、軍事力低減の為に皇都に向けて魔物の群れを解き放った事件だ。首謀者は処刑済み。俺も対応に当たったからよく覚えてる」
それは、クルトと傭兵団を結成する約一年前のこと。
当時、皇都では諸外国との戦争が激化しており、主戦派と和平派の対立が浮き彫りとなっていた。そんな中で起きたのがこの事件。過激化した一部の和平派が、国力低下に伴う諸外国への隷属を目論んで、あろうことか皇都に魔物を解き放ったのだ。
騒動自体は軍と傭兵団によって鎮圧され、扇動した和平派は一斉投獄。
首謀者だったガリアド・ルブルクを含む五名が処刑されることで、事件は幕を閉じた。
民間人にも多数の死傷者を出してしまったこの事件は、ヴァリアント皇国の歴史上でも類を見ない最悪の出来事として知られている。
「
「さすがに覚えてないな……」
思い出してみようとは思ったが、すぐに無理だと悟った。
あの時は次々と現れる魔物の対応に精いっぱいで、人の生死にまで都度気を払っていられなかった。とにかく目の前の魔物を倒し続けなければ、皇都が落とされる勢いだったのだ。
なによりもう十年前だ。記憶の細部は曖昧で靄が掛かったように朧げになっている。
「でも、そうか。あの時いたのか」
「はい」
アリアーレは短く呟き、おもむろに顔を近づけてくる。
もうすでに肉薄しているのに、さらに近くへ。
反面、俺は身体を逸らして遠ざかる。
「兄も、他の誰も来てくれなくて、だから私も他のみんなと同じようにもう死ぬしかないんだって思いました。でも、違った。貴方が現れた。私を救ってくれた。あの時、死の淵に立っていた私のことを、傷つきながら、必死に、助けてくれた。わかってます、私を助けたんじゃないってことは。でも格好良かった。王子様みたいだった。英雄にしか見えなかった。おかげで私は今もこうして生きてます。貴方にすべてを捧げる為に生きてるんです」
彼女の長い髪がさらりと揺れ落ち、毛先が頬を撫でる。
いつの間にか彼女の迫力に気圧されて、カウンターに背を付けるほど仰け反っていたらしい。
少女に似つかわしくない妖艶な表情に、思わず息を呑む。
微かに湛えた微笑み、上気した頬、うっとりと垂れた目、いまにも口付けをしてきそうな雰囲気だ。
嫌でも駄目でもない。が、やはり駄目だ。
俺は彼女の肩を掴んで遠ざけた。拒んだように映っただろう。
しかし、それでもアリアーレは微笑みを絶やさない。
「貴方に救われた命です。貴方の為に使いたいんです。だから……私を団に入れてください」
「……そう言われてもな」
クルトの団は解散している。彼女もそれは知っている筈だ。
俺が返答に窮していると、アリアーレは俺の手を取って言った。
「エルザさんの団を作りましょう。そこに入れてください」
「団の申請は最低五人からだ。君がいても三人足りない。……自分で言ってて悲しくなるが、俺の人望じゃそんなに集まらない」
「グリードさんを誘いましょう。兄が引退した後もお二人でしばらく続けたんですよね。だったら乗ってくれるはずです。残りは私が集めますから」
「……」
どうしてそこまで。そう喉まで出かかって、寸でのところで耐えた。
それを言うのは野暮だと思った。
彼女がこの十年間、どんな思いで生活していたかはわからない。
それどころかつい昨日まで、俺は彼女の存在すら認識していなかった。
幼少期の歪んだ憧憬に身を焦がし、鬱屈した思いを抱え続けた、憐れな少女。
ならば、その原因たる俺は、アリアーレが十年抱えた重い想いを受け止めねばならないのだろう。
俺はアリアーレの手を握り返した。
「……そこまで言うならわかった。色々と面倒や迷惑は掛けるだろうが、よろしく頼む」
「はい」
消え入るようで、されど意志を感じる力強い返事。
こうして俺とアリアーレの、少しだけ歪な関係が始まったのだ。
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