第三話「青春」
朝ちゃんは私の腕を押さえつけて、仰向けになる私に乗って、膝で私の足を固定する。自然と見つめあってしまう状態で、私は溶けてしまいそうになるほど熱くなる。言ってしまえばそれはもうゼロ距離で隙間なんてないくらい近いのだから。
朝ちゃんの細い腕の見た目とは裏腹に、強い力だった。
「き、急に…なに…」
掠れたようで裏返ったような、素っ頓狂な声が飛び出る。
自分の鼓動が早くなるのを感じられる。
「答えてよ」
朝ちゃんの顔は、どこかニタニタと嫌味ったらしい顔で、そして扇情的な顔でもあった。頬が僅かに赤くて呼吸が聴こえる。
私は覚悟を決めて次の言葉を投げてみる。
「好き…だよ」
顔を逸らしらなが、本棚に詰まりに詰まった本たちを見ながら。
傍から影が伸びる。
夕焼けに染まった腕、朝ちゃんの細くてしなやかな腕。
「…むぐっ…」
私の頬を手で掴まれ、捕まえられた。
「ちゃんと私の事見ながら言って?」
瞳の奥はあくまで悪魔的な──そんな瞳だった。
鬼気迫るというか、狂気を孕んだというか、なんというか。
両の頬を掴まれ、そして私は「好きだよ」と言う他なかった。
「ふふっ、知ってる」
私が落ちた理由の一つである笑顔を浮かべながら、優しい手つきで頬を撫でられる。知ってるなんて言うけど、私が友達としてなのか、恋愛的としてなのかまで分かってるのかな。
しばらくの間、沈黙が流れた。
時計の秒針の音と、唾液を呑む音だけが聴こえる。
お互いに見つめあう。それもずっと。
輝く瞳の奥の奥、
時報のチャイムが鳴り響いた。
ゆうやけこやけの歌が私たちを包み込む。
時間が止まった私たちを呼び戻すみたいに。
私は取り乱して、立ち上がって、そのまま荷物を持って。
「も、もう帰るね…!」
勢いよく逃げるように部屋を飛び出した。
朝ちゃんは何も言わず、ベッドに座ったまま。
ドアを通り抜ける時まで視線を感じた。
でもそれが熱い視線なのか、冷えた視線なのかは分からない。
薄暗い廊下を抜けて喫茶店へと入る。
翠さんは夕方のニュース番組を見ていた。
画面の向こうからは交通事故を報せる声が聴こえている。
まぁよくあるニュースです。
「もう帰り?」
「はい…お邪魔しました」
「そ、また遊び来なよ」
そう言われ、手を振られ、そのまま見送られる。
変だと思われたかな。
何も聞かれなかったのが、私を何となくそう考えさせる。
ドアを開けるとドアベルの軽くて綺麗な音が鳴った。
日は落ちかけていて、半分も見えなくなった太陽と、反対に鮮明に見える月がとても綺麗だった。
二つを見ていると不思議な感覚に陥ってしまいそうです。
私は怖いものを見たかのように急いで自転車に跨って、そのまま家路へと着いた。
勾配が急な坂を登るけど、自転車でここを漕げるような体力は備わっていない。
頑張って押しながら進んで行った。
家の前に着く頃には、あたりはすでに真っ暗闇で風が吹いて木がざわめく音が聴こえるだけだった。
家に入って誰もいないけど「ただいま」なんて言う。
ここで「おかえり」なんて返ってきたら、それはもう大変なホラーだろうなぁと心の中で呟く。
リビングの電気を付け、洗面台で手を洗う。
指の間から、爪の先まで。
丁寧に、細かく。
普段はそこまでやらないけど。
テレビをつけ、ソファに寝転がって今日の出来事を思い返す。
目を閉じて、テレビの音が耳から通り抜けるのを感じて思い返してみる。
初めて学校をサボったこと。
朝ちゃんに出会ったこと。
朝ちゃんを好きになったこと。
それで、少しだけ朝ちゃんが怖かったこと。
「濃い一日でした」
ソファから跳ね上がって、冷蔵庫から飲みかけのオレンジジュースを取り出して、大きな一口を。
夜ご飯、どうしようか。
何かあったかな。
冷蔵庫の中を凝視しながら考える。
そうして思い浮かぶ。
でもそれは夕飯じゃなくて、別のこと。
朝ちゃんの顔、声、手足、感触、匂い。
気持ち悪いほどに離れない。
むしろ鮮明に、一秒前の出来事のように思い出せる。
「離れらんないなぁ…」
小さいため息をついて、戸棚からカップ麺を手にする。
ポッドに水を入れて、スイッチをいれて、沸騰させる。
数分後に水が沸騰している音が聴こえるけど、それでも私はその場から一歩も動けずにいた。
本当は私が沸騰していて、お湯なんか沸いてないのかもしれない。
私の中で、いちばん深いところで、何かがグルグル渦巻いて、何かがグツグツ煮え立っている。
どうしたって朝ちゃんのことを考えてしまう。
僅かな吐息だって、少しのまばたきだって、微かな指先の動きだって、髪の毛の一本だって、些細なことすら愛おしい。
もう本当に全部が全部、大好きなのです。
カップ麺を戸棚に戻して、沸いたのか分からない液体をシンクに流し捨てる。このままこの想いも一緒に流せたらいいのになんて。
再びソファに寝転んで、内容なんて入ってこないけど、それでもテレビを眺め続ける。
見たことない男の人が何かを話していることだけが分かる。
明日こそは学校に行けるかな。
そう思いながら時計を見る。
時刻は午後七時。
それから私はひたすらに、馬鹿みたいに朝ちゃんの事を考えながらテレビを眺めるのでした。
「……ぎ、…よぎ」
パッと視界が広がる。
眩しい光が瞬く間に私の目を焼いた。
「寝るなら自分の部屋で寝なさい」
「…あ、お母さん…お帰りなさい」
どうやら寝てしまったらしい。
ソファの上に横たわる体を起こして、目を擦る。
時刻は…午後十時。
そこまで長い時間眠っていたわけじゃないのに、気持ち悪いくらいにスッキリとした気分だった。
「ご飯はちゃんと食べた?」
「食べたよぉ…」
少し違和感を感じる。
なんでだろう。
取り敢えず、お母さんをジッと見つめる。
そして数秒後に私は気づいたのでした。
朝見た時はスーツを着ていたのに、今はちょっと高そうなロングスカート、綺麗な灰色のニットを着ている。
いつも仕事帰りはそのままスーツで帰ってくるのに今日は違う。
「お母さん、どこ行ってたの?」
それとなく聞いてみる。
「あ、気づいちゃった?」
お母さんは少し笑みを浮かべながら、机の上に見たことあるブランドのロゴの紙袋を置いた。
「実はねぇ今まで隠してたんだけどお母さん…お付き合いしてる男性がいるのよ」
なんと。
とんでもない事を聞いてしまった。
「…え、ほんとに?」
「ほんとよ、ほんと。今の職場の人なんだけどね、それがもう凄い優しい方なの」
お母さんはニヤけた顔をして、息をつきながら紙袋から取り出したものを私に見せる。
「ほら、お母さん今日誕生日じゃない?それでね貰っちゃったの、これ」
キラキラと光り輝く、凄い高そうなネックレス。
極めつけには大きなダイヤが嵌め込まれた指輪。
もしかして、まさか。
「お母さん…プロポーズされちゃいました…!」
「ネックレスは誕生日プレゼントで…指輪はプロポーズの」
「綺麗な夜景が見えるレストランでね、結婚して下さいって…きゃー!」
年甲斐もなくはしゃぐお母さんの姿。
それとは正反対に暗い姿の私。
私の事は何も考えずに勝手に話を進める姿が目に焼き付けられる。
熱くて、痛くて、苦しくて、息がしづらくて。
「そ…うなんだ…ふふっ良かったね…お母さん…」
痛い。
痛いなぁ。
「そうそう、それでね梵に会って欲しいのよ」
「私が?」
「だってあなたのお父さんになるんだから」
「わ…分かった」
「じゃあ今度の日曜日ね、もう折り合いはついてるの」
「その人はなんて言うの…名前」
「───」
聞いたはいいものの、一文字も私の頭に入ってこなかった。
どんな読み方で、漢字なのかすら私の脳が処理することはない。
私は立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
コップに注ぎ、一気に飲み干してから。
「お母さん…誕生日、おめでとう」
そう言うと、お母さんの返答も待たずに私はリビングから出ていき、自分の部屋へと帰って行く。
電気も付けず、真っ暗な部屋の中で私は布団をかぶる。
そして思い返す。
楽しそうなお母さんの姿を。
久しぶりに見たな、あんなに楽しそうな姿。
「結婚…かぁ…」
亡くなった父の姿を思い浮かべ、そして自己嫌悪に陥る。
祝福したい気持ちはあるけれど、それにしたって私は拒否してしまう。いきなり、突然、ひとつ屋根の下で知らない大人の男の人と暮らすなんて考えられないから。
勉強机の上に置かれている可愛く包装された袋を見つめる。
きっとアレを渡すことなんて今後一切無いんだろうな。
知らない男から渡された物に負けてしまうから。
そうして私は再び目を瞑り、眠りへと落ちる。
アラームが鳴る前に目が覚めた。
携帯の画面をつけると、時刻はまだ六時だった。
いつもより早く起きた私は二度寝しようとしたけど出来なかった。
ムクリと起き上がり、カーテンを勢いよく開く。
窓の向こうはいつも通りの穏やかな朝の景色で、私はそれに腹が立った。理由は分からない、でも何故だか無性に苛立つ。
リビングへ降りたけど、お母さんの姿はどこにも見当たらなかった。もう仕事に行ったのかな。
取り敢えず私はお風呂に入ることにした。
昨日入ってなかったから。
それから服を脱ぎ捨て、扉を開ける。
蛇口を捻って、僅かな時間流れ出る冷水を足元に浴びせ、私はそれに耐える。一通り洗ってお風呂から出た。
身体中が暖かい。
湯気と共に脱衣所から全裸で出る。
自分の部屋に戻って制服を着る。
だって今日は学校に行くからさ。
そうして私はいつも通りの準備を終えて家を出た。
でも少し違う点があります。
今日は四十分も早く家を出たのです。
外はちょっぴり蒸し暑くて、夏が近づいて来ている気がした。
ウザったい程に鮮やかな青い空に、青い海。
好きな景色が今日は違く見えた。
どこまでも続く海と砂浜。
「ついて来ないでよ」
海が見える方を向きながら呟いた。
脇見運転極まりないですね。
苛立ちながらも学校へ着いた。
正門を通って駐輪場へ自転車を停めた。
今日は早く来たからいつもより停まっている数が少ない。
昇降口へ入るまでに、色々な音が私の耳を通り抜けていった。
体育館から聞こえるバスケットボールをつく音、床と擦れるシューズの音。
グランドから聞こえる男子たちの逞しい声。
校舎の方から聴こえる透き通った楽器の音。
剣道場から聞こえる怒号のような声。
外周を走る陸上部の子達の掛け声。
そう感じてはいるけど私はこれらの一部分に過ぎなくて、周りからしたら足音を立てている存在なんだろうなあ。
教室に入ると半数のクラスメイトが居た。
誰かに挨拶をするわけでもなく、私は自分の席に座るとうつ伏せになって寝たフリをした。周囲の声に聞き耳を立てて。
でもみんないつも通りの会話をしている。
「昨日のドラマ見た?」
「課題やった?」
「彼氏がさぁ」
「俺全然寝れてねぇよー」
「うちの顧問がさぁ」
「うわ、それやばいね」
代わり映えのない日常で、でも私はそれに上手く溶け込めてない。
私から見えるここは灰色でしかない。
面白くもない、なんて事のないただの学校。
つまんないって心の中で吐き捨てる。
同時につまらなくしているのは自分だよって理解しながら。
徐々に声が増えていった。
そうとなると誰が何を話しているかなんて分からない。
数十分も立つとピタリと会話が止んだ。
私もそれに応えるように身体を起こす。
「ホームルーム始めるぞ」
担任の先生が一人一人名前を呼んでいった。
私は返事をしてから頬杖を付いた。
「よーし、全員いるな」
「で、伝達事項だが………」
「今日からクラスメイトが増えることになった」
特大イベントだ。
少なからず私はそう思った。
クラスメイト達もそう思っているはず。
今日室内がざわめき、男子達が騒ぎ始める。
「はい静かに。今から呼ぶから入って来なさい」
先生がそう言うと、呼ぶ前に扉が開いてしまった。
一歩一歩、着実に歩く姿に私は声が出そうになった。
だって、だって転校生が朝ちゃんだったから。
凛とした背筋で、スクールバックを両手で持って、昨日見た制服とは違った制服を着ていて、私が好きになった理由の一つの笑顔を浮かべながら自己紹介をして。
「
「好きなものは…夏と海と読書です。よろしくお願いします」
栗色の髪を垂らして会釈をする姿に私は、心臓が高鳴っていくのを感じた。
灰色に映って見えた景色が一瞬にして変わって見えた。
前に座っている川本さんの色、黒板の色、先生の色、教室全体の色、全てに色がついた瞬間でした。
「はい、というわけでこんな時期だが転校してきた夏瀬だ。分からないことだらけだと思うから皆フォローしてやってくれ。」
朝ちゃんと目が合う。
朝ちゃんは私に向けてはにかんで、声を出さずに、口の形だけで私に言ってきた。
「また会ったね」って。
周りからは「めっちゃ可愛くね?」とか「ちょー美人」だとか、そんな声ばかり。私の方が先に知ってたよ。
「席は…三号車の一番うしろが空いてるからそこに座って……」
朝ちゃんは先生の言葉を遮るように「梵の隣がいいです」と言った。先生はもちろん、クラスメイト達は呆気な顔をしていた。
理由は簡単で、初日にいきなり変なことを言うから。
「そよぎ…ああ、
「え、あっ…はい全然大丈夫です」
黄色い声が別の色に変わったのが分かる。
ざわめきからどよめきへと変わったのが分かる。
それでも朝ちゃんは何を気にするわけでもなく、ただ真っ直ぐに三号車の空いてる机を持ち運び、私の何も置かれていない隣へ置いた。
「よろしくね、梵」
「…よろしく朝ちゃん」
私はたじろぎながら、澄んだ目をしている朝ちゃんを見ながら応えた。昨日見た姿と変わらない姿。
クラス中の視線が向いている。
みんな色んな目をしていた。
懐疑的な目、変なものを見るような目、好奇心に満ちた目。
「なんだ、知り合いだったのか?」
「はい、そうです」
朝ちゃんが言った。
もちろんその通りです。
「だったら風見、休み時間に校内を案内してくれないか?先生も助かるんだが」
「…分かりました」
「ありがとう、助かるよ。夏瀬もおじさんとじゃ嫌だろう」
「ふふっ、そうですね」
あ。
やってしまったと私は思った。
もちろんクラスメイト達もそう思っただろう。
変なことを言った先生も悪いけど、それにしたって、ねぇ。
これで朝ちゃんのキャラ付けは「変わった子」になってしまった。
そうしてホームルームは無事にとは言えないけど終わりを迎えた。
そうとなれば次に待ってるのはクラスメイト達からの数々の質問だった。隣に座っている私には気にも留めず。
朝ちゃんは投げられた質問を丁寧に返していた。
「秋田のどこから来たの?」
「仙北市ってとこだよ」
「夏瀬さんめっちゃ可愛いね」
「ふふっ、ありがとう」
「夏瀬さんは部活入るの?」
「もう三年だし入らないかな」
「夏瀬さん本好きなの?」
「結構好きかな」
夏瀬さん、夏瀬さん、夏瀬さん、夏瀬さん、夏瀬さん、夏瀬さん。
夏瀬さん、夏瀬さん、夏瀬さん、夏瀬さん、夏瀬さん、夏瀬さん。
機械のようにただひたすらに、くだらない質問ばかり。
嫌になる。
腹が立つ。
何もかも。
つまんない学校も、何も考えないお母さんも。
気づいたら私は席から立ち、囲われている朝ちゃんの腕を引っ張って教室という監獄から連れ出した。
みんなが何か言ってたけど、そんなのどうだっていい。
あそこに閉じ込めるなんて悪行──私が許せなかったから。
朝ちゃんは驚いた様子でもなくただ受け身になって、私にされるがまま、そのまま一緒に走った。
走りながら「そうしてくれるの待ってた」なんて言う。
私はそれに答えず、ひたすらに走った。
ひたすらに、遠くへと。
掴む位置は腕から手のひらへと変わり、少し汗ばんだ手も、少し暖かい手も、細くて綺麗な手も全部私が握る。
誰にも渡したくない。
誰にも触らせたくない。
私だけのものにしたい。
艶やかな髪だって、澄んだ瞳だって、透き通った声だって、溶けてしまいそうな程の笑顔だって。
全部が全部、私のものにしてしまいたい。
そんな欲張りな私を嫌がらずに、むしろ受け入れてくれる朝ちゃんが私は好きです。
痺れて、焼かれて、焦がれて、吹かれて、揺れて、取り憑かれて、どうしようもないくらいに好きで好きでたまらない。
このまま手を握ったままどこかに消えたい。
全力で駆ける馬鹿げた理由を私は言わない。
頬を撫でる風は私と朝ちゃんをどこかに流すように強く吹いた。
チャイムの音が駄々をこねるみたく聴こえた。
「朝ちゃん海、行こ!」
これが青春と言えないなら、他に何を青春と言えるのでしょうか。
少なくとも私はそう思っています。
風そよぎ流される こもり @TyIer
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