第二話「恍惚」
ぼんやりと考え事をするわけでもないけれど、白くて大きな雲の下、砂浜に流れ着いていた古い木に腰掛ける。
今は多分、昼休みが終わったくらいかな。
しばらく私は海と空を行ったり来たりするみたく眺めて、暑いけど涼しいというか、涼しいけど暑いというか、そんな曖昧な境目達を彷徨って、それから帰路に着こうとする。
生まれて初めてズル休みをしたな。
私も不良デビュー!とかそういう柄でも無いこと考えたりしながら家とは真逆の方向へと自転車を漕いだ。
このどうしようもない感情を投げて、吐いて、捨てられる場所まで行こうしています。
交差点に差し掛かった。
信号機の青がチカチカと点滅していて、止まれって言われているみたいだった。漕ぐのをやめ、止まると「あれ、ズル休み?」と声を掛けられた。男の人で、知った人の声だった。
振り返ると「
私よりもずっと背が高くて、グラスコードが特徴的な人。
「…ズル休みしちゃいました」
「ははっ、いいねズル休み。学生の特権だ」
右の口角を上げながら、はにかむように笑って言った。
随分と特徴的な笑い方だと思う。
「ウチに来るところだった?」
「そーです」
「なら丁度良かった。
「やった、楽しみ」
青になる前に自転車から降りて、翠さんと並んで押して歩いた。
「ズル休みした理由聞いてもいい?」
私の顔を覗き込むように言ってくる。
私は咄嗟に「海、見たかったから…です」と言ってしまった。
でも嘘は言って…ないよね。
「ふーん、いつでも見れると思うけどなぁ。まっ、そういう事にしとくよ」
見透かされたように、それでいてニヤリと不敵な笑みを浮かべる。やっぱり私って顔に出やすいタイプなのかなぁ、なんて。
緩やかな坂へ差し掛かった。
ちょっと振り返るだけで、広くて大きい綺麗な海が見渡せる。
私はここから見える景色が好きです。
それから他愛もない会話を繰り広げながら進んでいくと「喫茶
「自転車、そこに停めちゃいな」
翠さんがそう言いながら指さした所は自販機の前だった。
「全品100円!」と凄く目立つ張り紙が貼られている。
そういえば自転車でここに来るのは初めてだな。
ガチャン。
鍵を掛けた。
ドアを開くとドアベルの涼しい気分になる音と共に、涼しい空気が私を包んだ。全身が少しずつ緩んでいくのが分かる。
「いらっしゃい」
私のすぐ後ろから翠さんが言った。
「いらっしゃいましたぁ」と返した。
バタン、ギィ…。
ドアを閉める音ともう一つ、古くなった木が軋む音。
「涼しい〜…」
「久しぶりの冷房の出番だからさ」
「紅茶飲む?」
「もちろんです」
「じゃ、適当にくつろいでて」
「りょうか〜い」
ふかふかのソファに座ると可愛らしい声が聴こえてきた。
「にゃあ」だって。
まさか。
まさかね、あのモフモフの可愛い生き物がいるなんてね。
まぁでも一応?
念の為ですよ。
声がした方を見る。
そこには──奴が。
奴がいました。
そう奴です、奴なのです。
「ね、猫ちゃん!」
真っ白で艶々な毛並み、僅かに尖った耳、短い髭、くりくりなお目目。白猫は私の足元へ寄ってくるとすりすり、すりすり、そう音を立てるみたく頭を擦り付けてきた。
「翠さーん!この猫ちゃんどうしたんですか!」
背中を撫でながらちょっと大きめの声で聞く。
カウンターの奥の方から大きめの声で「親戚の子が飼ってる猫だよ」って返ってくる。
親戚の子なんて居たんだ。
「君は美形だにゃあ」
両手で白猫を持ち上げた。
嫌がらずに私の目を真っ直ぐと見つめて、海で出会ったあの子にそこはかとなく、似ているような気がした。
カップとお皿が合わさる音が聴こえる。
そして甘くていい匂い。
なんだろう、気になるな、楽しみ。
「お待たせ致しました、こちらバニラティーです」
翠さんがそう言うのと同時に白猫が、私の膝の上に乗ってきたではありませんか。
「えらく懐かれてるね」
「えへへ、おかげさまで…」
私の好きな甘くて蕩けそうな匂い。
控えめに言って幸せな気分。
「すごくいい匂い…」
「気に入った?」
「これは飲む前から分かります…じゅるり」
ヨダレなんか垂れてないけれど、冗談のように言ってみた。
「あ、忘れてた」
その一言と共に翠さんはカウンターの奥へと姿を消した。
白猫はゴロゴロと喉を鳴らして私に甘えてくる。
かわいいなぁもう。
「はいこれ、サービス」
「えっ、良いんですか」
「良いのいいの食べちゃって」
「やった、ありがとうございます」
そこには大きないちごが乗ったショートケーキが。
真っ白なクリームと真っ赤ないちご。
とっても美味しそう。
「じゃあまずはバニラティーから…」
カップを手に取り、甘くて酔いそうになるほどの匂いを嗅ぐ。
小さな一口で飲んでみる。
ごくり。
「…美味しい!」
「仕入れて良かったよ」
カウンターテーブルで頬杖をついていた。
それからバニラティーを飲み干して、ショートケーキを頬張りながら。
「そういえばさっき、親戚の子がどうとか言ってたけど、来てるんですか?ここに」
「ん、そうだよ。一週間前からね」
そうなんだ。
最後まで残しておいたいちごをパクリと。
親戚だから翠さんに似てるのかな。
だとしたら結構、美形なのかな。
「その子の写真とかあります?」
「写真…んー、写真ねぇ」
携帯の画面を指でスライドさせながら呟いた。
すぐに指が止まる。
「はい、この右の子」
私は嬉々として画面を覗き込んだ。
そして私は自分の目を疑った。
だって、そんな、まさか。
画面の向こう側には、朝に出会ったあの子が。
私の目を奪ったあの笑顔で。
柔らかくて、溶けてしまいそうな優しい笑顔で。
今日見た姿より少し、ほんの僅かに背が低かったけど、紛れもなくあの子だ。髪型は同じで、ちょっと幼く感じる髪留めをしている。
「…名前、なんて言うんですか」
画面から目が離せない。
釘付けも釘付け。
しっかり固定されてる。
「朝顔の朝って書いて──朝ちゃん」
「歳は梵ちゃんと一緒かな」
それから画面は真っ暗になった。
急に夢から覚めたみたく、一瞬にして引き戻された。
でも鮮明に覚えてる。
顔も、声も、匂いも何もかも。
そしてチリン、ギィと、
ドアベルの音と共に木が軋む音がした。
私はゆっくりと、そしてゆっくりと呼吸をしながらドアの方へ視線を送る。ベストタイミングだ。
ドアの向こうから差す光が眩しい。
後光、光背、そう言っても差し支えない。
そこにはあの子がいた。
今朝見た姿で、一緒のままで、栗色のショートヘアで、綺麗なフェイスラインで。
思わず私は「…朝ちゃん」と言ってしまった。
そして「あれ、名前言ったっけ」そう言われる。
「翠さんに教えてもらった…」
「なに、二人とも知り合いだった?」
「うん、今朝海で会ったの」
髪を耳にかけるその仕草に心が高鳴った。
さっきまで外にいたからちょっとだけ顔が赤くて、それでいて艶っぽい。
「す、翠さんの親戚の子って…そう…だったんだ…」
「なぁに?私だとおかしい?」
「あ!いや、違うよ!全然…そんな意味じゃない」
「ふふっ、変なの」
またあの笑顔だ。
ずっと見ていたいなって思うくらい、虜になってる。
どうしたもんかな。
「くもに懐かれてるね」
「…くも?」
「空のくもで雲…その子の名前だよ。真っ白だから」
白猫…雲を撫でながら言った。
「にゃあ」って嬉しそうに鳴いてる。
「あ、そうだ」
「…なに?」
「私まだ君の名前知らないや。教えて欲しいな」
「…そよぎ、です」
「どう書くの?」
緊急事態発生。
朝ちゃんの顔が接近中、すっごく近い。
顔、赤くなってないと良いな。
「風がそよぐの梵…木、木って書いて下に平凡の凡…」
「へぇ、涼しい名前だね」
「涼しい?初めて言われたかも」
「じゃあ私が一人目ってことだ。嬉しい、ふふっ」
私の隣に座ってはそうやって、私が嬉しくなる言葉を投げてくる。
それが分かっててやってるのか、知らずに無意識の内に…なのか。
罪な女ですね。
「朝も何か飲む?」
「じゃミルクティー。あ、砂糖も」
「はいはい」
翠さんが再びカウンターの奥へ消えていった。
すると朝ちゃんが「ね、いつもここ来てたの?」と聞いてくる。
「たまにね」なんて言うと朝ちゃんは、何も答えずに雲を持ち上げた。
「良かったな〜雲、可愛い子に抱っこしてもらってぇ」
「…え!?」
思わず声を出してしまった。
だって急にそんな事言うからさ。
ずるいってば。
「あっはは。声おっきいね」
「だ、だって…変な事言うから…」
「ほんとの事言っただけだよ〜」
もう声も出なかった。
出そうになって止めただけ。
「お待たせしましたー、ミルクティーね」
「ありがと」
カップを手に取った瞬間、ミルクティーを飲み干した。
「そんなに喉乾いてたの?」
朝ちゃんは照れ笑いを浮かべながら、空になったカップをテーブルに置く。
「外暑かったから」
「にゃあ」
「ふふっ、雲もそう思うってさ」
重くて低い音が体の底から響くような気がした。
音がした方を見ると柱時計が十七時を指していた。
「わ、もうこんな時間だ帰らなきゃ」私がそう言うと「帰っちゃうの?」と朝ちゃんがソファの上で、上目遣いで、可愛子ぶって迫ってくる。
そんな顔でそんな事言われたら引き下がれないよ。
従うしかないよね。
しょうがないもんね。
「今日、お母さん帰ってくるの遅くなるって言ってたから…まだ居ようかな…あはは」
「ほんと!じゃあ私の部屋いこ!」
「…えっ、ちょっと!」
私の手を取り、引っ張って、まるで誘拐されるみたく連れていかれた。
「翠さんご馳走でしたぁ〜……!」
連れ去られる途中にそうお礼を言う。
翠さんは少し呆れた笑みを浮かべながら手を振っていた。
いつも目にしていた扉。
その向こうに足を踏み入れるのは初めてだった。
喫茶夕顔は平屋で、住居と繋がっている。
「私の部屋、奥なの」
まだ私の手を離さない。
温かくて、柔らかい手だった。
ちょっと緊張する。
だっていきなり好きな人とも言える子に、ね。
薄暗い廊下の壁には沢山の写真が飾ってあった。
そこには翠さんらしき人や知らない男の人、翠さんの友達かな。
綺麗な夕焼けを映す海の写真、山、森、街並み、世界遺産まで。
「叔父さん、写真撮るの好きなんだよね」
知らなかった。
割と長くからここに来ていたけど初耳です。
「さ、ほらほら入って入って」
ドアの前に立つと背中を押され、押し込まれ、閉じ込められる。
入ってみればそこは、私の部屋では到底見れないような光景が広がっていた。窓から見える夕焼けに染まった海、大きな本棚に詰め込まれた大量の本、アンティークなベッドに机や椅子。
「…素敵な部屋」
「ふふ、ありがと」
橙色の夕陽が窓から差し込み、部屋中が包まれ輝いて見える。
「この時間帯になるとさ、こうなるの」
光景に見蕩れていると肩を掴まれ、腕を掴まれ、ベッドへと押し倒された。
「あ、朝ちゃん…?どうしたの…?」
息を飲んで、息をすることを忘れるみたく、緊張感が走る。
私の腕を押さえつけながら浮かべる朝ちゃんの表情は、どこか恍惚としていて、でも西日に照らされているだけかもしれないけれど、それにしたって艶っぽい顔。
傍にある机の上から時計の針が動く音だけが響く。
機械的で、規則的な音。
余計に奇妙な感情を昂らせる。
怖くて、不安で、でも怖くなくて、不安じゃなくて。
そういう曖昧で不確かな感情。
胸が高鳴る。
「私のこと好き?」そう言った。
こんな日が来るなんて思いもしませんでした。
聞いてますか、いつかの私。
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