風そよぎ流される
こもり
第一話「快晴」
青く輝く素敵な場所──海。
浜辺を見るだけで思わず、駆け出してしまう程に取り込まれ虜になってしまいます。足の裏で踏む熱く煮え滾った砂達は、やがて波に攫われることになるのですね。鼻を突き抜ける潮の香りは残り香となって当分消えずにいる事でしょう。水面に映る白く眩しい光は気持ちを高揚させ、あなたの顔を照らしつけ、それはもう熱い視線でそのままじっと、振り向かせたいが為に見つめています。
ショートヘアを靡かせ、毛先が口に入りかけながらもするその仕草はわざとなのか、それとも偶然でただ私が焦っているだけですか。
やがて、潮騒を聴きながら波打ち際を歩き、次第に服を着たまま、海の中へ消えていくのですか。
あなたの思い出にすらならずに、そのまま流されるのですか。
だとしたら流れ着く先は私が決めてもいいですか。
目に映る最後のあなたが背中だけだなんて嫌なの。
だから「バイバイ」なんて言わないで下さい。
私を痺れさせた責任を取って下さい。
◇
見渡すかぎりいつもの天井で埋め尽くされていた。
携帯のアラーム音と雀の鳴き声だけが聴こえる。
時計を見ると針は午前七時を指していた。
虚ろな目を擦りながら重たい身体を起こし、少しだけ欠伸をした。
窓とカーテンの隙間からは明るい光が漏れ出している。
「早く起きなー!」
「…起きてるよぉー」
ドアの向こうからお母さんの声が雀の鳴き声をかき消した。
聞こえてるかも分からない、小さい声で返事をする。
ひとまず部屋から出ることにした。
一段ずつゆっくり階段を降りていくと、スーツ姿で慌ただしそうにしながらヒールを履くお母さんが居た。
「おはよ、朝ご飯机の上にあるから早く食べな」
「んー…」
「ほらシャキッとする。お母さん今日仕事遅くなるから晩ご飯、適当に食べて」
「ん…」
「それじゃあ行ってくるからね」
「いってらっしゃーい…」
最後まで慌ただしかった。
「そっかぁ…今日遅いのかぁ…」
玄関先に掛けてあるカレンダーを眺めながら呟いた。
今日は六月十日、お母さんの誕生日だ。
仕事人間だからきっと自分が誕生日だなんて忘れてるに違いない。
リビングのドアを開け椅子に座るとテレビの向こうから声が聞こえた。
「日本全域、真夏日となっており季節外れな暑さです。九州から四国にかけてまだまだ暑さが続く見込みです」
そっか、暑いんだ。
トーストを頬張りながらリビングの窓から見える空を眺めた。
いい天気と言えばそうだけど、そこまで嬉しげに言えるものでもないかな。暑いのはあんまり好きじゃないし。
「ごちそうさま」
急いで食器を片し、急いで洗面台の前へ立った。
飛び跳ねた髪の毛を整え、後ろ髪をヘアゴムで綺麗にまとめる。
「うん、いい感じ…」
鏡に映る姿をいつものように一分眺める。
毎日の習慣にしている。
理由は特に無いけれど自分の姿を見ることで自信をつけられる。
私は私の事が大好きなのかもしれない。
歯ブラシを咥えつつ、寝間着から制服に早替わり。
少しだけスカートを折って短くする。
ふと時計を見ると八時になっていた。
慌ててうがいをして、タオルで拭いて、靴下を履いて、テレビと電気を消して、スクールバックを持って。
「いってきまーす」
誰もいない薄暗くなった家に向かって、そう言ってみたりして。
そうしてやっと家を出て学校へと向かう。
それが私の日常。
なんて事ない、普通の中学三年生の毎朝。
外に出るとそれはもう、まさに真夏日で汗が滝みたいに出そうだった。ワイシャツの袖を捲りながら自転車に跨る。
六月とは思えない強い日差しが私を照らして焦がす。
本当に暑いけれど、海沿いの坂を下る時はとっても涼しくて気持ちが良い。潮風が私の背中を押して一層タイヤが回る。
アスファルトとタイヤが擦れる音を聴きながら、鼻歌混じりで自転車を漕ぐ。砂浜の傍を通るとふと、目に映った。
靴と靴下を左手で持って、素足で、見たことない制服で、波打ち際を歩く女の子の姿が。
栗色のショートヘアで毛先が肩に付くか付かないか位の長さの女の子だった。私は思わず漕ぐ足を止めて、自転車に跨ったまま止まってしまった。遅刻確定かな、なんて思ったりする。
そのまましばらく、でも長い時間じゃないけれどその子を眺めた。
するとその子が私の視線に気づいたのか、振り返って私と目が合った。互いに目を逸らしたりはしないで少しだけ、僅かに見つめた。
「遅刻しちゃうよ」
ちょっと大きな声で私に言ってきた。
私も「いいの、遅刻する」って大きな声で言う。
自転車から降りて、短い階段を降りる。
靴で踏む柔らかい砂の感触が伝わってきた。
「遅刻はいけない事だよ」
優しい笑顔を浮かべながらそんな事を言った。
風が吹いてその子の髪が靡く。
「たまには息抜きもしないと…」
「そっか」
それから少しだけ沈黙が続いた。
でも、不思議と気まづくはならなかった。
初めて会ったのにほんと不思議。
二人で横に並んで波打つ海を見ていた。
快晴の下、目に映る海は煌びやかで輝いていた。
それから「君、何年生なの?」って聞かれる。
私が「三年生」って答えると「じゃあお姉さんだね」って笑って言う女の子だった。
その子は早生まれの同じ学年の子。
私は五月生まれだからお姉さんらしい。
それと、お互いに名前は聞こうとしなかった。
理由は分からないけれど、聞く必要もなかった気がしたから。
「今日さ真夏日なんだって。ニュースで言ってた…」
話題を振ってみる。
些細な会話のきっかけとして。
「知ってる。私も見た」
「やになるね」
「私はそういうの好きだよ。夏がさ、今から行くよって言ってるみたいでワクワクするんだ」
「そっか。面白いね」
青い海を見つめながら言うその子の横顔は、綺麗な線で描かれていた。暑いから少し赤くなった頬と、少しだけの汗。
なんか、全部、美しく思えた──気がする、かな。
「今何時かな」
ありもしない腕時計を見るみたいに手首を返す君だった。
「十時前、だと思う…」
「一時間目終わったかな」
「多分…? 」
「学校行く?」
「今日はもういいや」
「ふふっ、私も同じ」
柔らかくて、溶けそうになるくらいの笑顔を浮かべるその子は私の手を握って言った。
その手はちょっと汗ばんでいて、それで暖かった。
その子は無言の空気を裂くように「海好きかも」って言う。
「どんな所が好きなの」って聞くとその子は「君に会えたところが」なんてキザなことを言った。ちょっぴり恥ずかしかった、漫画みたいなセリフを言うから。
幸い、強い日差しのおかげで顔が赤くなってもバレない。
今日が真夏日で良かった。
初めて暑くて良かったと思えた。
ああ。
そっか。
私は今日初めて会った子に、多分だけど──恐らく、恋をしたみたいです。だって女の子に手を握られても、いつもだったらこんなにドキドキしないし、顔だってちゃんと見て話せるから。
でも今は違う。
ドキドキしてるし、顔見ながら話せない。
だから恋をしたみたいです。
焦燥感て言うのかな、心が挟まれているみたいで少し痛い。
でもやっぱり嫌じゃなくて、むしろそんな気分が嬉しいと言うか、なんと言うか──。
とにかく痺れて、落ち着かなくて、揺れて、吹かれて、取り憑かれている、そんな私です。
「どうしたの?」
視線を落としていた私を心配してくれた。
なんでもないと私は手を離し、少しだけ後ずさった。
再び沈黙が続いた。
さっきよりも長い時間。
私は靴を履き捨てて、浅い浅い海へ踏み込んだ。
冷たい海は私の足をすぐに凍らせて、私をそこへ縛り付ける。
「冷たくて気持ちいね」
熱された心を冷やして振り返る。
砂の上に立つその子は陽炎に包まれて、ゆらゆらと揺れていた。
何も言わずに優しい目で私を見つめている。
もしかして夢なのかなと馬鹿みたいな事を思ったりした。
だって泡みたいで淡くて、儚くて、消えちゃいそうだったから。
でもすぐに違うって分かった。
「夢じゃないよ。ここにいるよ」って言うから。
私を見透かしたような顔で君は言うから。
私って顔に出やすいのかな。
「この後どうする?」
透き通った水面の下に見える足を眺めて言った。
「もう帰るよ」
「そっか、分かった」
残念とか、悲しいとか、そうは思わなかった。
また会える気がしたから。
女の勘はよく当たるって言うし。
「君は?」
「私はもうちょっとだけここに居る」
「そう、じゃあまたね」
またね──か。
私、さようならとか、じゃあねとか、バイバイとかより好き。
「また」って事は向こうもまた会いたいと思ってる証拠だから。
次も会えるって事だから。
だから好きなんだ。
「うん。またね」
小さく手を振って、小さくなっていくその子の背中を目で追う。
次第に見えなくなっていった。
冷やされた足を再び熱するために裸足で砂浜を走り出す。
焼けた鉄板みたいだったけれど、どうってことない。
駆け回って、スキップしたり、高く跳ねてみたり、声にもならない、掠れたような声で嬉しさを叫んでみたり。
それが、私が今できる一番の表現なのかな。
砂浜で風に揺られながら広大で、無限に広がっているように見える水平線の向こうを想像した。
今日はとてもいい天気だった。
素晴らしき快晴、晴れやかな気分です。
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