第31話 吹き出すふたり
十六時三十分。
想乃は早くも研究所があるビルの前にいた。
「どうしよ……早く来すぎちゃった」
先週の水曜日に来たのが最後だったこともあり、自宅からここまでどれくらい時間がかかるか正確に覚えていなかったのだ。それにしても、三十分も前に着いてしまうというのはかなり感覚がおかしくなっている。気持ちが前に前にと出すぎてしまったのだろう。
ビルの前を不安げな表情で行ったり来たりする想乃。近くを通る人たちは変な目を向けている。
(また商店街でも行こうかなぁ。それでお土産とか買ったりして……)
想乃は遅刻した日のことを思い出していた。
あの日も想乃は三十分前に着いていた。そこから商店街で時間をつぶし、夢中になって時間を忘れ、気づいたときには遅かった。遅刻確定演出である十七時のチャイムが聞こえてきたのだ。
慌てた想乃はチャイムをスタートの合図とし、研究所まで全力疾走。ビル前に到着してドタバタと階段を下り、びくびくしながらインターホンを押した。
だが、出てきた創守は想乃が予想していた動きとは正反対で、連絡がなかった想乃のことを心配してくれた。そう。人に興味のないあの創守が心配してくれたのだ。
そして記憶は先週の水曜日に進む。
あのときも、創守は想乃のことを思って言ってくれた。それに対して、想乃の態度は子どもすぎた。ささいなことが引っかかり、自分のことを棚に上げて激怒したのだ。
想乃は自分が恥ずかしくなり、その場で座り込んだ。
「はぁ……まだまだ子どもだなぁ」
想乃は商店街に行くのをやめた。
いま想乃の中で落ち着きつつある感情は、この場から離れるとともにぐちゃぐちゃになり、もう戻ってこれなくなるかもしれない。そう思ったからだ。
想乃は立ち上がり、階段の近くに移動した。そしてそこでまた座り込んだ。
(いつも来てたのは五分前。それまでここでぼーっとしてよう)
想乃は階段の下を眺めながら、そのときが来るのを待った。
一方そのころ、創守は事務所でお茶を飲んでいた。
想乃が作るものと自分が作るもの。使っているものはまったく同じなのに、不思議と味は違っている。
研究所で防犯カメラの映像を見れば、すぐ近くに想乃がいることがわかる。だが、創守はそれを見ることなくインターホンの音を待つ。自分だけ直前に準備できてしまうのが嫌だったのだ。
お互いを
「よし……行こう」
とうとうそのときがやってきた。十七時五分前だ。想乃は階段を下り、ドアの前に立つ。
「ふぅ……」
ゆっくりと深呼吸を繰り返したあと、ボタンに指を添え、ポチッと押した。
——ピーンポーン。ふぁさっ……。
「うぎゃああああああああああ!!」
想乃はこの世の終わりとばかりに叫んだ。創守が仕掛けたモジャモジャカツラが想乃の右腕に落ちてきたのだ。薄暗い地下でのその感覚は、心霊現象そのものだった。
事務所でリモコンを操作した創守はまさかここまで驚くとは思わず、慌ててドアを開けて確認する。
「だ、大丈夫?」
創守が半分笑った状態でそう聞いてきたのを見て、想乃は静かに察した。自分が来たときのために、元気づける仕掛けをしたのだと。
「もうなんなんですか! 久しぶりに来たっていうのに!」
声を荒げる想乃の表情には、怒りなど
「もしかしてだけど、気づいてない?」
「えっ、何をですか?」
「いや、なんでもない」
「えー、気になるー! 言ってくださいよー!」
「いやほんとなんでもないって。気にしないで。てか早く入ろう。あんまり騒いでると通報されかねないし」
「いや心配しすぎ!」
想乃を先に事務所へ入らせた創守は、バレないように自分の分身を回収した。
想乃は久しぶりに味わう事務所の空気に感動していた。室内が想像よりもきれいだったのだ。
「自分で掃除してたんですか?」
「まぁ」
「ふーん」
想乃は自分がいないと掃除もしないだろうと思っていた。入ったと同時に変な匂いがして、イスは散らばり、床はホコリまみれ。そう思っていたのだ。
ただ、実際は違った。そのギャップになぜだか寂しさを感じた。
「あのさ」
そんなとき、創守からも似たような感じが流れてきた。想乃は思わず「えっ」と返すが、続く言葉は意外なものだった。
「そのぉ……ごめん」
想乃は一瞬、自分の名前が呼ばれたと思った。でも違った。
ただそれよりも想乃の耳に残ったのは、悲しげなごめんだった。その言葉を聞いた途端、想乃は目頭が熱くなるような感覚に襲われた。そして気づいたときには自分の口からも同じ言葉が出ていた。
「あたしのほうこそ、ごめんなさい!」
ふたりの間に不協和音はもうない。先週から続いた重たい空気も感じない。なんだかんだあったが、仲直りできたのだ。
ふたりはしばらく見つめ合い、吹き出す。
なぜあんなに悩んでいたのだろう。面と向かって気持ちを伝えればこんなに簡単なことだったのに。
ふたりは笑いながらも、互いにそう感じていた。
「実はツクモンに言っておきたいことがあるんです」
落ち着いたころ、想乃は話を切り出した。ふたりはテーブルをはさんで向かい合っている。
「なんだよ急に改まって」
「いいから聞いてください。知ってほしいんです。あたしのこと」
「は、はぁ」
創守はクエスチョンマークを頭に浮かべている。どんな話がはじまるのかまったく予想できていない。
想乃は深く息を吸い込み、ゆっくりとはき出す。そして、半年前から今日この日まで続く自分の状況を話しはじめた——。
「そんなことが……。ほんとにごめん。そうとは知らず余計なお世話だった……」
想乃の話を余すことなく聞いた創守は、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
結局のところ、自分が深く入り込んだせいだったのだ。
(僕みたいな人間が人と深くかかわるべきじゃなかったんだ……)
「違うんです! 全部あたしが悪かったんです! なんにも知らなかったツクモンは悪くないです!」
「でも僕が何も言ってなければ……」
「ツクモンが言ってることは正しいんですから、もう気にしないでください。ただあたしが子どもだっただけなんです」
「でも……」
「でも言わない! もういいって言ってるでしょ!」
「はい、すみません」
「はぁ……。でも、ありがとうございます」
「えっ?」
「そんなにあたしのこと思ってくれてたんだって。やっぱりあたし、愛されてますね」
「出たよ、自意識過剰」
「これがあたしですから!」
「ふんっ、そうだな」
この日はふたりにとって一生忘れることのできないものとなった。
創守は人との接し方を。想乃は恐れず向き合う勇気を。
それぞれ見えない部分の変化ではあるが、人はいつだって成長するのだ。そこに年齢の差などありはしない。大人も子どもも関係ないのだ。
ちなみにモジャモジャカツラの内側には、創守が最後の仕掛けとしてセットしていたものがあった。それは一枚の紙切れで、そこには太字で『ごめん』と書かれていた。
今となってはなんの意味もない仕掛けで終わってしまったが、むしろ気づかれなくてよかったのだ。自分の言葉で伝えられたのだから。
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