僕らは渡りたい

上町 晴加

僕らは渡りたい

「あ、お客さん。いま左の窓、見ないほうがいいよ」

 ここ最近多い局地的な豪雨に降られたタクシーの中、そう言った運転手の言い方に気味悪さを感じた。

「ここの横断歩道、ちょっと前から出るんだよ。知らないかい」

 マサトを首を振った。

「去年、ここで大きな事故があったでしょ。小学生の子どもと犬が轢かれたって。子どもは意識不明、犬は可哀そうなことにさ・・まったくひどい話だったよ」

 マサトもよく覚えている。地元で起こったその事故は連日ワイドショーでも多く取り上げられていた。事故に巻き込まれた少年の名前はシンタロウ。ニュースで流れた、犬を抱っこしたまま微笑んでいる写真が、事故の悲惨さを際立たせているとマサトは当時感じていた。


 事故があった場所は地元の人間から「サーキット」と呼ばれ、渡ろうとする人間がいるにも関わらず止まろうとする車がほぼいない、有名な場所だった。そこから少し進んだ先の信号に捕まれば長い、という理由で横断歩道からも確認できるその信号の「青」を見たドライバーがブレーキを踏むことはなかった。

 無理にでも渡ろうとすれば止まってくれるんじゃないか、そう思った歩行者が危うく轢かれかけた、そういうこともあった。


『いつか事故が起きると思っていたよ』『警察は事故が起きるまでは動かん』取材でそう答えている近所のおばさんの映像が各局で数週間流れた。

 いつしか被害に遭った少年と犬のことよりも、事故の悪質さばかりが目立ち、国民の興味も自然とそちらに流れた。

 結局、あの少年がどうなったのかマサトは知らない。当時のことを思い出すのが辛かった。だからマサトも少年のその後を調べることはなかった。

 

「あの事故があったのも、今日みたいな土砂降りだったろ」

「はい。そうでしたね」マサトが答える。

「先々週ぐらいからだよ。雨のときにここを通るとさ、俯いて立ってるんだよ。男の子が」

 ワイパーが雨を払いのけている。

「そりゃ成仏できるわけねーよな」運転手は言いながらハンドルを握りなおす。

 車体が弾く雨音は、あの日、町を騒がしたシャッターのようにうるさかった。

「でもな。不思議なことに夜にばっかいるんだよな」

「どうしてでしょうか」

 さあな、と運転手が答える。そのときマサトは車内に響く雨音の隙間に何かを感じた。体をひねって振り返る。

「あっ」

 雨の中に少年が見える。豪雨の中で俯いている。・・運転手の言うとおりだ。マサトはすぐに前を向いた。それから少しして首を傾げる。


 --いまの声、気のせいかな。


                 *


 夜。二十二時。近所の工場で夜勤をしている父に忘れ物を届けたマサトは帰り道にあるコンビニの中にいた。

 週刊の漫画雑誌を立ち読みをしているとき、微かな音と視界にチラッと見えたものを確認しようと顔を上げたとき窓の外に雨が見えた。

 ーーええ、まじか。

 ここから家まで二十分は歩く。マサトは急いでビニール傘を買って外に出た。

 歩き出して十分。激しくなる雨脚。イヤホンをしていても聞こえるビニール傘に当たる雨音。マサトは水たまりを避けながら歩いた。


 例の横断歩道は次の角を曲がれば見えてくる。マサトは昨日、運転手から聞いた話を思い出していた。高鳴る。マサトはイヤホンを外す。条件はすべてそろっていた。今夜もきっといるのだろう。

 打ちつける雨音がうるさい。気づけばマサトは角の手前で止まっていた。深く息を吐いて、右足を出した。

 意を決して曲がった角の向こう、そこに少年の姿はなかった。でも。

「あれ、いない」そう脳がそう判断を下した直後、背後から声がする。


「でておいでー」


 マサトは締め付けた喉の下で叫び声を、喘ぐように漏らす。

 反射的に振り返ったマサトはビニール傘をその手から落としていた。

 そこに少年がいる。

 目が合うと直感でそう思うと同時に「シンタ、ロウくん?」と名前を呼んでいた。--あの子だ。

 びしょ濡れの少年は顔を濡らす雨粒の中でもはっきりわかるほど涙を流しながらマサトに言った。

「おにいちゃん、コタロウ、知りませんか」


                *


「ほら、こっちおいで。髪の毛乾かさないと風邪ひくよ」

 少年は鼻水をすすりながら、まだ「コタロウ」と呟いている。

 マサトは玄関に降りて、しゃがむシンタロウの髪の毛を拭き始めた。そして考えた。


 一年前、事故にあった少年が今ここにいるシンタロウであることは間違いない。何度もテレビで見たこの顔を見間違えるはずがない。

 シンタロウは亡くなっていなかった。

 おそらくあのまま病院に搬送されて、一命を取り留めた。なぜ今になってこの町に、あんな時間に、こんな雨の中にいたのか、それはわからないが、シンタロウは生きていた。

 昨日、タクシーの中で聞いた声が蘇る。


『コタロウーどこー』

 

 聞き間違いではなかった。そしてマサトは思った。

 コタロウは少年があの写真で抱いていた犬の名前ではないかと。


                *


 依然降り続く雨の中、少年の涙が一足先に止んだ頃、マサトの家の電話が鳴った。

「はい。わかりました。お待ちしております」と母がいつも以上にやわらかい声で話している。

「シンタロウくん。ママ、迎えに来てくれるから、もう少し待っててね」

 母がシンタロウに言う。マサトもシンタロウの頭を撫でた。「よかったね」


 数十分後。インターホンが鳴り、コンビニの制服姿のまま顔中に汗を浮かべたシンタロウの母が来た。シンタロウの顔を見るなり、汗を上書きするほどの涙を流した。

「ごめんね。シンタロウ」そう言って抱きしめられたシンタロウもまた、堰を切ったように涙を流した。


                *


 母が淹れた麦茶を飲んで、少しずつ落ち着き始めたシンタロウの母は途中、何度も謝りながら今回の経緯を説明した。

 シンタロウがあの事故から一命を取り留めていたこと。そのあと長い入院生活を送ったということ。そして先々週からこの町に帰ってきていたということ。

 女手一つでシンタロウを育てているため、昼勤と夜勤、時間の許す限り働いている、そのため夜も家を離れていることが多いということ。

 シンタロウは退院したあとも心を持ち直すことに苦労していたようだった。

 "家に一人"という心細い時間を共にした愛犬、であり親友のようなコタロウがいなくなった。その事実が酷くシンタロウを傷つけた。コタロウの存在は何よりも大きかった。

「夢の中にコタロウが出てきて、僕のそばでずっと泣いているの、そんな夢を見るの」朝起きてきたシンタロウからそんな話を何度か聞いていたらしい。それもきまって、事故の日のように雨が降っている日ばかりだったという。

 マサトは思った。シンタロウは夜、その夢で起きるたび、母親には内緒でひとり家を出てコタロウを捜し歩いていたのではないかと。事故のあったあの場所の近くでコタロウの名前を呼び続けながら・・。


 「私がもっとそばにいてあげたら」そう泣きながら話すシンタロウの母。その膝の上で眠るシンタロウの目尻のあたりから涙が流れている。上から落ちてきた母親のものだろうか、それとも今夜もまた同じ夢をみているのだろうか。

 マサトは今もなお、凄いスピードで横断歩道を走り抜けているであろう無数の車を想像して自分の親指を握りしめた。


                *


 --数か月後。

「古木」と書かれた表札の隣にあるインターホンを押した。中から「はーい」と声がする。

玄関扉を開けたのはシンタロウだった。

「あ、マサトにいちゃん!」「よっ、シンタロウ」

 マサトが手提げ鞄の中に手を入れるとシンタロウの目が輝いた。

「待てって。慌てない慌てない」そう言ってマサトはそこから取り出したものを、勢いよくシンタロウの前に広げて見せた。

「わぁ!コタロウだ!」

 Tシャツにプリントされているのはシンタロウが一番気に入っていたコタロウの写真だ。父が務める印刷工場の社長に無理を言って作ってもらったものだ。

「着てもいい!?」

 マサトの返事を待たずして走ってリビングに行くシンタロウと入れ替わるように中から

「マサトくん。おはよう。今日もありがとうね」とシンタロウの母が出てくる。

「いえ全然大丈夫です。それより仕事はどうですか? 慣れました?」

 シンタロウの母は今、父の働く印刷工場で事務の仕事をしている。これもマサトが頼んだことであった。

「うん。なんとか。・・本当にありがとうね。マサトくん」

「大丈夫です。俺もあの事故があった日から、自分にできること、ずっと考えてたんです」

 あの日からマサトはシンタロウの家に何度も足を運び、一緒に遊んだ。コタロウの代わりは出来ない。でもコタロウみたいにシンタロウの側にいてやれることは出来る。マサトはそう考えた。涙ぐむシンタロウの母。マサトは頭を掻いて「かっこつけすぎちゃったかな、なんて」そう言っておどけた。シンタロウの母もすぐに涙を拭いて笑った。

「どうー?」

 向こうから走ってくるシンタロウ。胸にはコタロウがいる。よく似合っている。

「めっちゃいい感じ!」マサトは親指を上げる。

「やった! じゃあこれ着て行こう!」次にシンタロウはせわしなく靴を履く。

「マサトくん今日も一緒に行ってくれるの?」とシンタロウの母。

「俺が勝手にやってることですよ。むしろシンタロウがいつも一緒に来てくれてるんです」

 早く早く、とシンタロウがマサトの手を引く。「わかったわかった。じゃあ行ってきます」シンタロウの母にそう告げると、玄関を飛び出した。



 青い空が広がっている。何日目かは数えていない。続けることが目的ではない。あの事故を忘れないことが目的ではない。ただ、シンタロウがこれからもちゃんと前に進めるため、ちゃんと未来へ渡っていけるように、今日もマサトはあの横断歩道に立ち、車と歩行者を誘導していく。

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僕らは渡りたい 上町 晴加 @uemachi_haruka

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