第6話 もしも鬼女に出会ったら


 森の中は薄暗かった。

 神社でしか見たことがないようなぶっとい樹々が折り重なっているのだから当然か。

 目の前の幹に抱きついてみたけど、太すぎてまったく手が届かない。

 樹齢は数百年くらいありそうだ。

 藪の向こうでガサゴソと音がして僕は飛び上がらんばかりに驚いた。

 鬼女が出た!? 

 違った、ウサギが逃げていくだけか。

 どうやら僕は思い違いをしていたようだ。

 恐れるべきは鬼女だけでなく、熊や狼などの野生生物だって同じではないだろうか?

 それにここは異世界だ。

 ひょっとしたら魔物のたぐいだって徘徊しているかもしれない。

 そこらへんをリゲータに確認しておかなかったのは痛恨のミスだった。

 危険生物の影に怯え、おっかなびっくり歩いていた僕だったけど、次第に森にも慣れてきた。

 魔物は出現しなかったし、大型の野生動物もいなかったからだ。

 ときどき小鳥のさえずりが聞こえてきて、森の中は平和そのものだった。

 そんなこんなでしばらく進んだけど、そのうちに少し疲れてきた。

 村を出発してからかれこれ四時間以上は経っている。

 おそらく20キロくらいは歩いただろう。

 朝ごはんに煮豆を食べただけだからお腹も減ってきていた。

 この森の中には清水が湧いている泉があるそうだ。

 泉はちょうど森の真ん中あたりにあるとリゲータが教えてくれた。

 のどはカラカラだったけど、泉を希望にして歩き続けた。


 さらに少し歩くと苔むした岩に囲まれた泉を発見した。

 美しい場所で、透明な水が滾々こんこんと湧き出ている。


「おお……」


 思わず感動が口をついて出てしまった。

 それくらい僕は乾ききっていたのだ。

 さっそくビニール袋からプリンのプラスチック容器を取り出して泉の水をすくった。

 捨てないでよかった。

 昨日の俺、グッジョブだぞ。


「ゴク、ゴク、ゴク、ゴク……ぷはーっ! うまい」


 じつに美味しいお水だった。

 一杯ではとても足りず、僕は立て続けに水をすくっては飲んだ。

 そうやって渇きを癒すと、今度はお腹が空いてきた。

 僕の手元にある食料はチョコレートとカップラーメンだ。

 実はカップラーメンというのは水でも作ることができる。

 これは地元の防災訓練に参加した時に教わった。

 普通はお湯を入れて三分だが、水の場合は三十分くらい待つと柔らくなるようだ。

 水を使った場合でも麺やスープの味わいは熱湯で作ったものと比べても遜色がないらしい。

 ただ、こんなところで三十分を浪費するのはもったいない。

 日のあるうちにコボンに到着したいのだ。

 やはりお昼はチョコレートですますのが無難だろう。

 それも全部食べてしまうのは避けた方がいい。

 とりあえず三分の一だけを食べるにとどめておこう。

 手ごろな岩に座って、僕は慎重に板チョコを割った。


「いただきます」


 うむ、やっぱりミルクチョコレートは美味しいな。

 甘さが細胞にしみわたっていくようだ。

 これでもっと量を食べられたらさらに幸せだったんだけどなあ。

 だが、今は贅沢を言っているときではない。

 贅沢は美容魔法師として大成してからの話だ。

 昨晩のリゲータの反応を見るかぎり、僕のマッサージはコボンの人を虜にしてもおかしくなさそうだ。

 そうなれば富や名声は思いのまま、贅沢だってし放題だろう。

 そのためにもなんとか無事にコボンへたどり着かねばならない。

 だが、少々疲れがたまってきたな。

 ふくらはぎなんて、もうぱんぱんだぞ。

 僕がマッサージをしてもらいたいくらいだ。


「ん……?」


 そう、マッサージである。

 僕のマッサージには疲労を軽減する効果がある。

 だったらこの脚の張りをなんとかできるかもしれない。

 ゲームにおいて、回復魔法というのは実行する術者にも有効である。

 だったらマッサージのスキルだって効果があるかもしれないじゃないか。

 これはぜひ検証しておくべきだろう。

 僕はパンツの裾をめくりあげて、ふくらはぎをあらわにした。


「たのむぞ……」


 自分の指を見つめて、そこに魔力を込める。

 そして、僕は自分のふくらはぎをつかんだ。


「おお!」


 これは気持ちいい……。

 張りつめた筋肉をもみほぐしていくと、疲労物質がスッと抜けていくような感覚がした。

 単にマッサージというだけでなく魔法的な効果が高いようである。

 まさに美容マジックって感じで素晴らしい! 

 右足に続いて左足のマッサージも丹念に行う。

 それだけで疲れが吹き飛ぶようだった。

 このスキルがあれば一日中だって歩けるかもしれないな。

 ただ、残念なことに背中に手は届かない。

 歩くのに背筋も使っているから少し硬くなっているんだよね。

 でも、手が届くのは背中の一部分だけである。

 なんだかもどかしいな……。

 なんとか肩甲骨の周りをマッサージできないかと手を伸ばしていると、不意に後ろから声をかけられた。


「おい」


 女の人の声だった。

 ひょっとして、泉にやってきた旅人かな?


「はいはい」


 振り返ってみて、僕はその場に凍り付いた。

 鬼女に出会っても『あなたのために働きます』と三回唱えればいいだけだ、そんなに難しいことじゃない。

 そんなふうに考えていたときもありました。

 でもね、実際に鬼女に出会うとそんな余裕は消し飛んでしまうのだよ。

 僕の後ろに立っていたのは身の丈190センチはありそうな鬼女だった。

 肌は白く、眼は赤く輝いている。

 ピンクの長髪の間から小さな角が見えており、筋骨隆々ながら顔は妖艶なお姉さんだった。


「あう、あう、あー……」


 これは驚きのあまり意味をなしていない僕の間抜けな声である。


「なにをやってるんだい、あんた?」

「マ、マ、マ、マッサージを少々……」

「マッサージ? ふーん……」


 鬼女はおもむろに持っていた棍棒を振り上げた。

 こんなときどうすればいいんだっけ? 

 そうだ!


「あなたの肩を揉みます! あなたの肩を揉みます! あなたの肩を揉みます!」


 って、違った。

「あなたのために働きます」だった。

 僕、バカすぎる。

 死んで異世界に来たというのに、また別の世界へ転移するのかな? 

 それとも、これでもうすべてが終わってしまうのだろうか? 

 ところが、鬼女が棍棒を振り下ろすことはなかった。


「ん~……、ちょっと違うけど、まあいいか……」


 お姉さんが大雑把な性格で助かったあ。


「おい、肩を揉むとはどういうことだ?」


 鬼女は牙をむき出しにして威嚇しながら質問する。

 まだ殺さないと決まったわけではないらしい。

 しっかりと自己アピールをした方がよさそうだ。


「自分のジョブは美容魔法師です。スキルはマッサージでして、全身を揉んだり、さすったりして疲れを取ることができます。お客さんはどなたも、たいへん気持ちがいいとおっしゃってくださいます!」


 お客さんなんてとったことはないけど、噓も方便だ。

 なんせ命がかかっている。

 それに、リゲータの反応を見るかぎりでは、まんざら嘘とも言えないだろう。

 僕は念のためにさらに付け加えた。


「あなたのために働きます。あなたのために働きます。あなたのために働きます」

「ふう、しょうがないねえ……」


 鬼女のお姉さんは近くに会った岩の上にドッカと腰をおろした。


「どれ、それじゃあマッサージとやらを試してやるよ。ちょっとここでやってみな」

「は、はい……」


 とても逆らえる雰囲気じゃない。

 僕は大きく深呼吸してからお姉さんのうしろに回った。

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