第11話

 プールに行く当日の朝、私は何度も鏡を見ながら髪を整えていた。奈々と買った新しい水着を着る日が来たことに、嬉しさと緊張が入り混じった気持ちでいっぱいだ。


 奈々にどう思われるのかを考えると、なんだか落ち着かなくて何度も身だしなみを確認してしまう。


 玄関のチャイムが鳴り、私はドキドキしながらドアを開けた。奈々がにっこりと笑って立っている。


「おはよう、美咲!準備できた?」


「うん、できてるよ」


 奈々の明るい声に私もつられて笑顔になる。奈々と一緒にいるといつも安心感と幸福感で胸が満たされる。私たちは家を出てバス停に向かった。


 バスに乗り込むと、車内は親子連れや友達同士のグループでいっぱいで、皆がこれからの楽しい一日を期待しているのがわかる。私もそんな中で奈々と過ごす今日の一日が楽しみで仕方がなかった。


 バスが目的地に近づくにつれて、奈々と私の会話はますます盛り上がっていった。奈々が無邪気に「最近、ずっと美咲と一緒にいるね」と言うと、私はドキッとしてしまった。


 その言葉がまるで特別な意味を持っているように感じられて心臓が一瞬だけ早くなる。


「そうだね、奈々と一緒にいると楽しいから」


 私は照れくさそうに答えたが奈々はそんな私の様子に気づかないようでただ笑顔を浮かべている。その笑顔を見ていると私の胸の中が温かくなっていくのを感じる。


 プールに到着すると子供たちの歓声や水の音が響いてきた。私たちは更衣室へ向かい、奈々と隣同士のロッカーで準備を始める。


「美咲、やっぱりその水着可愛いね」


「ありがとう、奈々の水着も素敵だよ」


 着替え終わった私たちは更衣室を出てプールサイドへ向かった。水面がキラキラと輝いていて、その光景が夏の眩しさをより一層引き立てていた。


 プールに入ると奈々はすぐに水しぶきを上げてはしゃぎ始めた。彼女の笑い声が周りに響き渡り、その無邪気な姿に私は思わず微笑んでしまう。奈々と一緒にいると、まるで子供の頃に戻ったような気分になる。


「美咲も早くおいでよ!」


 奈々が私に向かって手を振る。私は少し遅れて彼女の元へ向かい、水に飛び込んだ。冷たい水が体に触れると、夏の暑さが一瞬で吹き飛んだような気がした。私たちはしばらく泳いだり浮かんだりして楽しんだ。


 ひとしきり遊んだ後、一度休憩しようと話しプールから上がり歩いていると、奈々がプールサイドで滑りそうになって、私はとっさに彼女の手を掴んで引き寄せた。


 その瞬間、奈々の顔が近づき彼女の息遣いが聞こえるほどの距離に驚いてしまう。至近距離でまっすぐ見つめてくる奈々の瞳に私はますます動揺してしまう。


 どうしてこんなにも彼女のことを好きになってしまったのだろう。奈々のことが気になって仕方がない。彼女の無邪気な笑顔も、ふとした瞬間に見せる大人びた表情も、全部が愛おしくてたまらない。そんな感情に支配され身体は熱を帯びていた。


「ありがとう、美咲……」


 奈々が小さな声で呟き、私も「奈々が無事でよかった」と言うが私は心臓が早鐘のように打つのを感じていた。


 その場を離れた私たちは、しばらく無言で歩き続けた。私の心はまださっきの出来事でドキドキしていて、奈々の手を握った感触が今も鮮明に残っている。彼女の温もりを感じるたびに、私はもっと奈々のそばにいたいと強く願ってしまう。


 その後、予定通り二人でプールサイドのベンチに座って一休みすることにした。さっきのこともあり、奈々のことを見るだけでドキドキしてしまう私は自分を落ち着かせるためにも飲み物を買いに行くことにした。


「ちょっと飲み物買ってくるけど何かいる?」


「そしたら適当にジュース買ってきてくれると助かるかも!」


「わかった、買ってくるからここで待っててね」


 奈々のもとから離れ飲み物を買うために自動販売機まで移動した私は何を買おうか少し悩んでしまう。最終的に奈々の好きなジュースを選びながら、奈々がどうしてこんなにも自分の心をかき乱すのか、関係性が壊れることを恐れて言い出せないこの気持ちをどうしたら良いかを考えていた。


(告白しないとなのかな……そもそも奈々は私の事をどう思っているんだろ)


 そんなことを考えながらジュースを持って奈々の元に戻ると、彼女が見知らぬ男性二人にナンパされているのが目に入った。彼らはプールで見かける典型的なナンパで、軽そうな笑顔を浮かべて奈々に何かを話しかけていた。


 奈々は最初は笑顔で対応していたが、次第に困った表情になっていくのが分かった。彼女の手にはまだ私が渡したタオルが握られていて、それをぎゅっと握りしめているのが見えた。


「せっかくの夏だし楽しもうよ~」


「とりあえず、向こうのほう行こうぜ」


 一人の男が奈々に向かって声をかけ、もう一人の男も同調するようにと話しながら、奈々の肩に手を置こうとした。


 私はその光景を見て男たちに怒りを感じた。奈々が嫌がっているのは明らかだ。私は心の中で焦りながらもすぐに行動に移した。


「奈々!」


 私は大きな声を出して、彼女の名前を呼びながら駆け寄った。奈々は私の声に気づいて、ほっとしたような表情でこちらを見た。私はそのまま奈々の手を掴んで引き寄せ彼女の横に立った。


「奈々、行こう」


 私はそう言って、奈々の手をしっかりと握りしめた。奈々は少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに私の手を握り返してくれた。


「え、何、お友達?君も一緒に遊ばない?」


 男の一人が私を見て奈々の友達と判断し、私も含めて遊ぼうと提案してくるが私は奈々の手をしっかり握ったまま冷静に答えた。


「いいえ、私たちはこれで失礼します」


 奈々の手を引きながらその場を離れようとする私たちだったが男たちはしつこく私たちの周りをうろついていた。彼らの軽薄な笑顔が奈々を困惑させているのが分かったし私の中で抑えきれない苛立ちが募っていく。


「ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃん」


「別に彼氏がいるってわけでもないんでしょ?」


 一人の男が無神経に言い放つと、もう一人の男も同調するように頷いた。奈々はそれに対して答えることなく、ただ困惑した表情を浮かべているだけだった。


 私は一瞬言葉を失った。彼らの態度に対する怒りと、奈々との関係に対するもどかしさが入り混じって、心の中で何かが爆発しそうだった。


「他人に関係ないでしょ!」


 私は思わずそう言い放っていた。声が震えているのが自分でも分かるけれど気にしていられない。私の言葉に男たちは驚いたように目を見開いたがそれでも諦めようとしなかった。


「そんなに怒るなよ。せっかくの夏なんだし、楽しくやろうぜ?」


 その言葉に私はさらに怒りがこみ上げてきた。どうしてこんな時に平然とそんなことが言えるのだろう。奈々が嫌がっているのが見えていないのかそれともわざと無視しているのか。どちらにせよ彼らの存在が私の中で膨れ上がる不快感を刺激し続けていた。


「いい加減にして!奈々が嫌がってるのが分からないの?」


 私は声を強めて言い、奈々をさらに自分の側に引き寄せた。奈々は少し怯えたように私を見ていたけれど、それでも私の手をしっかりと握り返してくれている。その温もりが私に勇気をくれた。


「もしこれ以上しつこくするなら、警備の人を呼びますよ」


 私は冷静にそう言い放ち、奈々の手を強く握りながら男たちを睨みつけた。私の言葉に、男たちは一瞬だけ戸惑ったように見えたが、次の瞬間には諦めたように肩をすくめて笑った。


「わかった、わかったよ。ごめんな、そんなに怒らせるつもりはなかったんだ。ほら、行こうぜ」


 一人の男がもう一人の男の肩を叩きながらそう言って、ようやくその場を立ち去ってくれた。私は彼らの背中が見えなくなるまでしっかりと奈々の手を握り続けた。


「美咲、ありがとう。ちょっと怖かった」


 奈々が小さな声で呟く。その声が少し震えているのを感じて、私は胸が締め付けられるような思いがした。


「大丈夫だよ、奈々。私がついてるから」


 私はそう言って奈々を安心させるように微笑んだ。奈々も少し落ち着いたようで、「うん、ありがとう」と言ってくれた。


 私たちはしばらく無言のまま歩いていたけれど、私の心の中では様々な思いが駆け巡っていた。奈々が他の誰かに取られてしまうのが怖い、そんな思いがますます強くなっていく。私はもっとしっかりしなきゃと自分に言い聞かせながら、奈々の手を強く握りしめた。


(奈々を守るのは私だ。他の誰かなんかじゃない)


 心の中で強くそう思いながら、私は奈々を見つめた。彼女の瞳が私をまっすぐ見つめ返してきて、その瞳の奥には感謝の気持ちが滲んでいるのが分かった。


「本当にありがとう、美咲がいてくれて本当によかった」


 奈々のその言葉に私は胸がいっぱいになった。彼女の言葉が私の心に深く響いて、ますます奈々への想いが溢れてくる。


「奈々、実は私、ずっと…」


 意を決して口を開こうとしたその時、奈々が「何?美咲」と問いかけてきた。私は一瞬ためらう。しかし、奈々の目を見つめて決意を固め、「奈々、実は私、ずっと…」と再び口を開くが、言葉が喉に詰まって出てこない。


「どうしたの?」


「ううん、やっぱり何でもないよ」


 奈々は心配そうに私を見ているが、いま好きと口に出してもこの場の空気によるものと勘違いされてしまうだろうしと理由を付け最後まで言葉に出すことができずにごまかすことしかできなかった。


 夕方になり、私たちは施設から出ることにした。帰り道、私は心の中で「奈々に告白するんだ」と何度も繰り返していた。しかし、奈々が無邪気に「次はどこに行こうか?」と奈々が無邪気に問いかけてきたとき、私は一瞬ためらい言葉に詰まってしまった。告白をしようと決意していたけれど、その瞬間奈々を見てどうしても言い出せなくなってしまった。


 奈々はそんな私の様子に気づかず、ただ楽しそうに次の計画を考えている。私は次の言葉が見つからないまま、奈々の手をぎゅっと握りしめた。


「美咲、どうしたの?」


 奈々が私の手を見て驚いたように尋ねてくる。その瞬間、私は微笑んで「何でもないよ。ただ、ずっと奈々と一緒にいたいなって思っただけ」と答えた。私の言葉に奈々は少し驚いたような顔をしたが、すぐに優しく微笑んでくれた。


「そっか、私も美咲と一緒にいられて嬉しいよ」


 その言葉に、私の胸は温かくなった。奈々の言葉が心に染み渡って、ますます彼女のことが好きだと実感する。だけど、やっぱり告白するにはもう少し勇気が必要みたいだ。


(次こそは、絶対に奈々に気持ちを伝えよう)


 自分にそう言い聞かせながら、私は奈々の手をもう一度しっかりと握りしめた。奈々は再び私を見て、不思議そうに首をかしげる。その仕草さえも愛おしくてたまらない。


「ねえ、美咲?」


「うん、何?」


「さっきから手を握ったりして、なんだかいつもと違うよ?」


 奈々の言葉に、私は一瞬だけ言葉に詰まった。だけど、やっぱり今はまだ言えない気がして、ただ微笑んで「なんでもないよ」とだけ答えた。


 奈々は少し不思議そうな顔をしたけれど、深くは追及せずに「そうなんだ」とだけ言って笑った。


 その笑顔を見ながら、私は心の中で「今度こそ必ず」と誓った。


 次のデートで、私は絶対に奈々に気持ちを伝える。彼女の隣にいたい、彼女を守りたい、そんな気持ちをきちんと言葉にしよう。奈々が私をどう思っているのか分からないけれど、それでも伝えずにはいられない。


 そう思いながら、私は奈々と手をつないだまま、家への道を歩いて行った。夏の夕暮れの中、私たちの影が長く伸びて、これからの未来を少しだけ照らしているように感じた。


(次こそは、絶対に……)


 心の中で強くそう願いながら、私は奈々に告白するための新たな一歩を踏み出した。

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