第10話

ドアの向こうからドン、と大きな音と声が聞こえるが気にする余裕が一切ないほど、エリザベスの頭の中は真っ白になっていく。目を何度も瞬かせるもアランは薔薇の花束を差し出したまま座っている。エリザベスが見ている白昼夢だろうか、そう思ってしまうほど告げられた言葉が現実離れしていた。


「…」


エリザベスは無言で後ろを振り向いた。当然ながら誰も居ない。前から呆れた声が返ってくる。


「誰もいるわけないだろう」


「申し訳ありません、つい」


 古典的なボケに走ってしまうほど、彼の口から発せられた言葉が信じられなかったのである。エリザベスは咳払いをし、気を取り直した。


「聞き間違いでなければ、婚約と仰いました?」


「ああ」


「正気でいらっしゃいます?」


「冗談でこんなことを言う奴は何処ぞの元婚約者と同等かそれ以上のクズだろうな」


 アランの声に不機嫌さが加わる。ウォルターと同列に扱われたことが大層不服なようだ。アランが先程告げた時の表情は真剣そのものだった。とても冗談を言ってこちらを揶揄おうと企んでいるようには思えない。これが演技だったらプロの役者も真っ青な演技力だが、アランはそう言ったことは不得意そうなので可能性としては限りなく低い、が。


「つまり本気であると…はあ」


「何だその目は。全く信じてないな」


エリザベスが疑心に満ちて目でアランを見ると彼が溜め息を吐いた。恐らく夢みがちな少女なら、疑うことなく二つ返事で受け入れていた。が、エリザベスは人の言葉を鵜呑みにしない。相手がどんな意図を持っているのか、何を求めているのかまず探りにかかる。基本的に人を信用していないのである。家族が全員敵という環境で育ったエリザベスがそうなってしまうのは仕方のないこと。本気だと言ってるアランを疑うのは心が痛むが、本当に信じられないのだ。いっそ何か裏があると言われた方が安心出来る。


(ん?裏…?もしかして…)


 エリザベスが自称勘が鋭い人間なので、こういったことに(エリザベスが知る限り)縁が無かったアランが何故婚約を申し込んだのか。頭の中にある一つの可能性が浮かび上がる。


(これは物語で良くあるやつ、偽装結婚ならぬ偽装婚約ね!)


エリザベスは確信し、そして興奮していた。親の顔より見た展開だ、と。女性が苦手だったり、自分の見た目や肩書きに寄ってくる女性に辟易していたヒーローが自分に靡かないヒロインに偽装結婚を持ちかけ、何かしらの事情を抱えていたヒロインもそれを受け入れる。そこからただの書類上の夫婦だったはずなのに互いに気持ちが芽生え始めるまでが定石だが、あくまで物語の上では、だ。現実で物語のようなことは決して起きない。


アランには高位貴族の嫡男には珍しく婚約者が居ない。女嫌いだからと噂されているが、以前彼が溢していたように嫌いというより苦手意識があるから、と言うのが大まかな理由だと思う。それに現公爵夫妻は高位貴族には珍しく恋愛結婚で結ばれている。自分達は好きな相手と結婚したのに子供には政略結婚を強要するわけにはいかない、と考えてもおかしくはない。


とはいえいつまでも婚約者不在の状態のままでは居られない。卒業したら自分の娘を次期公爵の婚約者に据えたい貴族達が本格的に動き出す。それを見越したアランの打った手がこれだ。自分に色目を使わず、家柄にも関心がなく生家も伯爵家と釣り合いが取れているエリザベスを婚約者に据える。懸念材料は異母妹に婚約者を取られたという醜聞がついていることだが、アランにとっては些細な問題なのかもしれない。そしてエリザベスにとっても利点が多い。エルベルト公爵子息との婚約は伯爵である父は断れない。嬉々としてエリザベスが不幸になるであろう相手を探している父達からしたら、余計なことをと怒りを露わにするだろうが公爵家の意向に逆らえないはず。あの傲慢で常にエリザベスを見下してきた父達の悔しがる顔が目に浮かぶ。


(アリサとお義母様はお父様以上に怒り狂うでしょうけど、私に手を出したら公爵家の反感を買う。そこまで愚かな真似はしないと信じたいけれど)


義母もアリサも自分達の思い通りにならないと腹を立て、周囲に当たることがある。父と兄が見逃しているから使用人は黙って耐えるしかなかった。感情のまま振る舞う似たもの親子が果たして大人しくしてるのか。


(そんなこと今考えても仕方がないわね。これは私にとって悪い話じゃないどころか、メリットしかない)


アランは自分に馴れ馴れしく擦り寄ってくる令嬢を牽制し、平穏な生活を送るため。エリザベスは悪意を持つ父達から身を守り、碌でもない男と婚約させられるのを防ぐため。まさに互いの利害が一致している偽装婚約。


(正直次期公爵夫人なんて荷が重すぎるけど、身の安全を保証してもらうのだからエルベルト様の求めには応じなければ。ん?婚約した場合事務官の試験を受けて働くのは認められないかしら…確かに外聞はあまり良くないけれど、さっき反対しなかったのだから交渉の余地はあるわ)


エリザベスの脳みそはいつになくフル回転し、僅かな時間の間で考えを巡らせていた。そしてエリザベスはにっこりと微笑むとアランと目を合わせて、こう言った。


「エルベルト様、婚約の話お受けいたします」


アランの表情こそ変わらないものの美しい碧眼が輝き出す。喜んでいるようだ。こんな婚約を持ちかけるくらいだから相当切羽詰まって居たのだろう。彼の苦労を察すると胸が痛む。安心して欲しい、役に立てる自信はないが風除けの役目くらいは果たしてみせる、と心の中で語りかける。


「そ、そうか。受け入れてくれて嬉しい。実は」


「それでは契約内容について詰めていきましょうか」


「…え?」


「…ん?」

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