第2話
授業が終わった放課後、エリザベスはある場所に向かっていた。目的地に着きドアを開け、中に入ると夥しい数の本と古い紙の匂い。図書室だ。昼休みは図書室の決まりを知らないのかお喋りに興じる生徒が多いが、放課後はほぼ人が居ない。司書の先生がカウンターに座っているが入ってきた生徒を一々確認することはない。素通りし、奥まったエリアに行く。
ここは歴史書や古く市場に出回っていない娯楽本、大学や王宮事務官など進学や就職に役立つ過去問が収められている。基本的に家庭教師を付けられている令嬢令息が過去問を借りることはないため、ここはいつも人が居ない。エリザベスの家庭教師は中等部の時突然辞めさせられてしまった。とても優秀だとエリザベスを褒めたせいで父の不興を買ってしまったのだ。彼女が兄が苦労した箇所をエリザベスが難なく理解したと口にしたのを、使用人に聞かれてしまったのも理由の一つだ。あの家には当主と次期当主に媚を売るためにスパイの真似事をしている者が少なくない。点数稼ぎのためにエリザベスは心を許していた教師を失ったのだ。
「お嬢様、知識は決して裏切りません。いつかあなたがどんな選択をしても大丈夫なよう一緒に学びましょう」
かつての家庭教師の言葉が蘇る。彼女の言葉をエリザベスはよく覚えていた。言葉の通り家庭教師がいなくなっても独学で勉強を続けてきた。そんなエリザベスをアリサは「勉強ばかりしてる可愛げがない女は誰からも好かれないわよ。あ、お姉様は何もしなくても好かれないわね」と馬鹿にしているが気にならない。婚約だって父の意思でどうなるか分からない不安定な立場だから、何があっても大丈夫なように手に職をつけるため勉強するしかなかった。その甲斐あって学園に入学してからは試験の成績は上位を維持し優秀な成績の者が在籍するAクラスに所属しているし、進級試験では次席だった。多分卒業するまでの最高順位だろう。首位はいつも彼が独占している。
(…あ、今日はいるのね)
1番奥の机の端に1人の男子生徒が座っていた。夜空を思わせる漆黒の髪に切れ長の瞳は深い青。目も覚めるような端正な相貌は常に冷やかな雰囲気を纏い、今も感情の読めない無表情で本に視線を落としている。エリザベスが来たことにも気づいていないのか、気づいた上で気に留めていないのか。彼の場合恐らく後者だろう。
アラン・エルベルト公爵令息。学園に入学してから首位の座を一度も渡したことのない秀才。類まれな美貌で婚約者もいないため学園中の令嬢から絶大な人気を誇るものの、本人は女嫌いらしくアピールしてくる令嬢を冷え切った眼差しと言葉で拒絶している。が、冷たいところが寧ろいいとよく分からない理由で人気が衰えないどころか、逆に上がっている始末。
そんなアランとくすんだ灰色の髪と瞳で、際立って美しくもない地味なエリザベスはクラスメイトとはいえ接点は無い…訳ではない。エリザベスは特段予定がなければ閉まるギリギリの時間までほぼ毎日図書室に行く。アランは読書が好きなのか、静かな場所が好きなのか週に2回はこの誰も寄りつかない場所で本を読んでいる。初めてこの図書室に来た数年前、彼の姿を見た時は帰ろうとした。アランと話したことはなかったが、令嬢に冷たいのは有名だった。ただ勉強しにきただけのエリザベスにまできつい言葉を浴びせるとは思えなかったが、当時は内心怯えていた。
しかし、ここ以外時間を潰せそうな場所を知らなかったのでアランから1番遠い机に座り、教科書を広げ勉強を始める。アランはエリザベスを気にすることなく、本を読み進め一冊読み終わった頃帰っていった。
(私がここにいても問題ないということかしら)
そもそも図書室は生徒が自由に使える場所なので、出て行けと言われとして命令を聞く必要はない。騒ぐならまだしもただ勉強しているだけのエリザベスを追い出す真似をするとは思えなかったが、アランの為人を知らなかったので必要以上に警戒してしまっていた。その後もアランと関わることはなく、ただお互いのしたいことをするだけだった。
そんな関係が少し変わったのは図書室に通い出して数ヶ月経った頃のこと。エリザベスは息抜きに何か本を読もうかと席を立つ。ここの図書室は買うと高価な古い娯楽本を多く収蔵している。借りることもあるがやはり家より落ち着くのでここで読んで帰ることが多い。エリザベスが自由に使えるお金は決して多くないので高価な本を沢山買うのは難しい。伯爵邸の書庫には専門書ばかりでエリザベスの好きなジャンルはないのだ。読書を陰気な趣味だと兄やアリサに馬鹿にされることに心を痛めた時期もあったが、今はもう気にしない。
今探しているのはミステリー。しかも描写が過激だと話題になったもの。エリザベスはそういった本を好んで読むのだが令嬢として好ましい趣味ではないのでリラにすら話していない秘密の趣味。ロマンス小説も好きだが、手に汗握るハラハラとした展開のミステリーの方が好きだ。目当ての棚に向かう時アランの姿が見えないことに気づく。
(帰ったのかしら?)
エリザベスは集中していると声をかけられても気づかないことがある。アランが席を立ったことにすら気づかなかった。特に気にすることなく、エリザベスは目当ての棚の前に着く。五十音順で並んでいるので指で辿りながら探す。
(あ、あったわ)
見つけた本に手を伸ばすと、同時に反対側からも手が伸びてきて互いの指先が触れる。
(え)
反射的に顔を上げると、視線の先には無表情の男…アランがいた。帰ったと思い込んでいた相手が目の前にいて、しかも同じ本を手に取ろうとしている。エリザベスは思わず手を引っ込めてしまった。
「あ、申し訳ありません」
こういう時は少なからずある。本屋でも図書館でも一冊しかない本を相手も同時に手に取ろうとした時、気まずい空気が流れる。エリザベスが譲る時もあれば譲られる時もあった。
「私は良いのでお先にどうぞ」
「いや、そっちが先で良い。君の方が早かった」
「…そうですか?ありがとうございます」
エリザベスはいつもの癖でアランに譲ったが、逆に譲られた。断るのも悪いので礼を言って本を取り出し、会釈するとアランは別の本を選び始めたようだ。エリザべスは彼に背を向け座席に戻った。
(普通の方だった)
女嫌いだと有名だから指の先が触れただけでも不快感を露わにするのかと思ったが、そんなことはなかった。エリザベスと同じ本を手に取ったということはアランもミステリーが好きなのだろうか、と少し気になるが聞く勇気はない。その後彼は別の本を持って戻り、かなりのスピードで読み終えると帰って行った。
初めてアランと言葉を交わしたが、別に何かが起きることはないとエリザベスは思っていたのだが。それから数週間後、「コルネリア」とアランに突然話しかけられた。本当に突然のことに、ビクンと肩が跳ねた。
「…はい?わ、私何か気に障ることを…」
「は?何故そうなる」
「突然話しかけられたので、てっきり怒っていらっしゃるのかと」
怯えるエリザベスにアランは怪訝な顔になり、理由を話すと眉間に皺が寄った。
「怒ってなどいない。俺は理由もなく常に不機嫌な人間だと思われているのか」
心外だと言わんばかりの彼の口調にエリザベスは今度こそ怒らせてしまったかと焦る。しかし口から出た言葉はなかったことには出来ないし、質問もされたので黙ることも出来ない。
「…その、女子生徒に対する態度が少々厳しいので…」
皆まで言わなかったが、言いたいことは伝わったらしい。ハー、とため息を吐いた。
「確かに馴れ馴れしい令嬢に対しては厳しい態度を取る。そうでない女子生徒に対しては普通に接しているつもりだが、愛想がないせいか怒っていると受け取られることが多いんだ。正直に言うと苦手だ」
「成程…それは、大変ですね」
当たり障りのない返しをする。普段アランが女子生徒にどう接しているか知らないため、てっきり女全員に当たりがきついと思い込んでいた。自分の勝手な思い込みを恥じる。初めてちゃんと言葉を交わしてみたが、アランは本人の申告通り愛想があるとは言い難いが態度が厳しいわけでもなく、女というだけで不快感を露わにすることもない。クラスの下世話な話で盛り上がる男子達より断然好感が持てる。
ここでアランが何故エリザベスに声をかけてきた理由が気になり出す。
「あのエルベルト様…私に何か用でも…」
「…そうだ、目的を忘れるところだった。コルネリア、君は時折本を読んでいるだろう」
「…そうですね」
図書室で本を読むのは当たり前な事だ。何故そんなことを聞くのだろう。
「ミステリーをよく読んでいるが好きなのか」
「っ!」
エリザベスは思わず目を逸らす。勉強の合間にミステリーを頻繁に読んではいるがアランがそれを把握してるとは思わなかった。時々見かける人間が読む本のジャンルなんて気にするわけがない、と。
隠しているわけではなかったが、指摘されると返答に困る。これがロマンス小説ならすぐに肯定できたのだが、何せエリザベスが読むのは人が息を吸うようにバタバタと死んでいく過激な描写の本ばかり。淑女らしくない、と非難されてしまうのではと思うと不安に襲われる。
(誤魔化すことは難しいし、嘘を吐きたくもないわね。それにエルベルト様は面白おかしく風潮する人には見えない)
「…はい、好きです」
「やはりそうか…お勧めの作品があったら教えてくれないか」
「…え?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。