第58話


 ところが、僕には茫然としている時間などない。


 よぞらが開いたゲートは目に繋がっている。それは自分の視界を守るためのゲートである。そう簡単に閉じることは無いだろう。まだあの世界に戻れるはずだ。


 僕は急いで起き上がってゲートに手を伸ばした。しかし、間に合わなかった。あと少しで届くというところでゲートが閉じられてしまったのだ。


「――くそっ、なんでこんな時に!」


 脳みそが反転するような眩暈めまいに襲われて立っていることができない。かろうじてベッドに倒れ掛かってグルグルする頭を押さえた。スプリングに反響する心音がやけに鮮明に聞こえる。ゲートを利用したときの体調不良はだんだんひどくなっていくようだ。


「どうしたものか。どうやってあっちに戻れば良い?」


「戻って、どうすると言うのですか?」


「…………お前か」


 ふいに人の気配がしたので目を開けると巫がいた。まるで初めからそこにいたかのように、卸したての制服を着て佇んでいる。


「いっそ安心感さえ覚えるよ」


「お前ごときが戻ってどうするというのです?」


「そんなことは知らん。しかし戻らねばならない」


「呆れたこと。考えなしに行くから窮地に陥るのですよ」


「そもそも考えなしに送り込んだのはお前だ。大人しくお前が連れ戻せばよかったんじゃないのか?」


「―――ふん」


 巫は鼻を鳴らすと水のように辷っていく。我が部屋のように椅子に座ると「で、お前は何を思い出した?」と冷たい目を向けた。


「僕の聞き間違いじゃなければ、僕の記憶について訊ねているように聞こえたが?」


「ええ、そう言いました。あの世界に送り込んだのは、すべてお前たちのためなのですよ?」


「…………はあ?」


 巫が何を言っているのか分からない。


「事故で転移した倉科を連れ戻すためじゃなかったか?」


 僕は記憶をさかのぼってみたが、巫が言及したのは倉科のことだけだ。僕の事なぞ虫けらのごとき扱いをしていた記憶しかない。


「何を寝ぼけているのです。あれを連れ戻すだけなら、わざわざお前を送ったりしない」


「……………………」


「ふふ、不満そうな顔」


 幼子のような笑みを巫が浮かべる。コイツの性癖は終わっていると思う。主導権を取り戻せなければいつまでもあの世界に戻れないと踏んだ僕はだしぬけに「お前が何を言っているか分からない。しかしよぞらを助けるために僕を連れていけ」と言ってみた。


 すると巫は真顔に戻って「なぜ?」と訊いた。


「なぜって……よぞらもこの世界の人間だろう。倉科を助けてよぞらを助けない意味が分からない」


「たしかに善良な人間なら助ける義務が生じるでしょう。だが罪人に手を差し伸べる必要があるとは思えません」


「罪人だと?」


 予想外の言葉に僕は困惑した。しかしここで動揺したら付け込まれると思った僕は威勢を崩さぬように「ふざけたことを言うな。よぞらが超能力者だからって言って良い事と悪い事があるぞ」と吐き捨てる。


 ところが巫は「期待外れだ」と言うように鼻を鳴らした。


「何がおかしい」


「あんな力などペットが走り回っているのとさして変わりません。あの力を与えた相手の方が問題だ」


「力を与えた相手? そんなヤツがいるのか」


「ええ。それは悪魔なんかよりよっぽど邪悪でおぞましい。お前には心当たりがあるはずだ」


 そう言われるとよぞらは昔は無能力者であった。「魔法が使えるようになった!」と言って異世界に移動するようになったのは小学校に上がったころからだ。


「急にどうした?」と訊ねたことがある。


 よぞらは心底嬉しそうに「もらった!」と答えたことを思い出した。


 あの頃は考えもしなかったが、たしかに「貰った」という答えは不自然なように思う。なぜ貰ったのか。なぜ貰う必要があったのか。なぜ喜んでいるのか。それを知る必要がある。そんな気がしてきた。


「ゲートを開く力がなぜ必要だったのか……? というか、なぜ、よぞらは異世界、並行世界に行って平気なのだ?」


「ようやく考えはじめたか」


 巫が呆れたように言う。


「あの力はナイアルラトホテプが授けたものです。すべてのパラレルワールドの自分と引き換えに得た、下卑た力だ」


「………なんだって?」


 僕は聞き返した。淡々と述べているが、いまトンデモない事を言わなかっただろうか。


「いま、ナイアルラトホテプって言ったか? ていうか、すべてのパラレルワールドの自分と引き換えに得た力だって!?」


「そうです。そして、それがお前の存在理由にもなっている。お前は考えたことがありますか。なぜ自分たちは同一存在に会ったことが無いのか。と」


「…………まさか」


「会えるはずがありません。なぜなら、お前はとっくの昔に死んでいるのだから」

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