第49話


 洞窟を抜けた先は泥沼であった。広大な世界が広がっていた。


 何十億年も昔の地球はこんな姿であっただろう。地平線のように広がる広大な泥沼。植物は一つも生えていない。地下なのに空があり紺色にうっすら光っている。大小さまざまな水たまりが点在しておりぼこぼこと泡立っている。遠くからでもハッキリ視認できるほど濃密な蒸気の柱が立ち昇っては消え、立ち昇っては消えを繰り返していた。


 僕は納得した。予測が正しかったことを確信するとよぞらに言った。


「ここには何もない。帰ろう」


「いや、明らかにおかしな世界が広がっているんだけど。ここはなに? 地下世界?」


 よぞらは洞窟から踏み出すと手でひさしを作って辺りを見回した。「あの遺跡の下にこんなところがあるなんて……」


「悪い事は言わない。早く帰ろう」


「……あんた、なんか知ってるの? どうして?」


「昔の小説で似たような世界を見た。この間、大量の猟犬に襲われたことがあっただろう。あれと同じ世界観の小説なのだけど」


「それは小説の話でしょ? ここにショウちゃんの記憶に関する何かがあるかもしれないんだよ。きちんと見て回るべきだと思う」


「小説の話でも実在したんだから警戒すべきだ。ここにいるのはそのシリーズでも特にヤバい奴なんだよ」


「じゃあ、警戒はしましょう。でも、目的は達成する」


 よぞらはそう言って僕の手を取った。どこかわくわくしているような声音だった。


 これがフィクションの世界であったならば僕たちは早期撤退を選んだだろう。もしくは思わぬアクシデントによって進退きわまる状況に追い込まれるかのどちらかだ。「ついさっき死にかけたのに探索を選ぶなんてリアリティが無い」とそしられるかもしれぬ。しかし、僕は甘んじて受け入れることにする。


 新たに迎えた局面が想像を超えたとき、人はそれまでの悲壮感や緊迫感を喪失するものだ。文字通り現実味が無いのである。理論では説明できない事象に出くわして好奇心がうずかない者がはたしているだろうか。怯えるのも良いかもしれない。しかし冷静な撤退を提案し賛美する者がいるならば、その者こそ現実味の無い知ったかぶりであると僕は糾弾する。せいぜいリプライ欄でわめいているが良い。


 ここにいるであろう神の名前を僕は知っている。


『始原にして終末の生命』それがここにいるのだ。


 ティンダロスの猟犬の事があるから確たることは言えないが、大筋では僕の知識と同じであろうと思う。ゆえに警戒を怠ってはならない。


「お前さ、本当は自分が見たいだけなんじゃないのか?」


 と言っておいた。


「そんなことは無いよ」


「本当か?」


 ジッと睨むとよぞらは顔をそらす。人間、危ないと言われたことは触ってみたくなるものだが、よぞらはことにその傾向が強いのである。「ゲートを開いたガレキを失くすなよ」とクギを刺すと「分かってるって」と尻ポケットを叩いた。


 僕たちは泥沼を探索した。生物の影は一つも見えない。ただ淡々と泥沼が広がっているだけだった。代り映えのしない景色が続く。


「本当に神様なんているの?」とよぞらが言った。


「ソイツを見てはいけない。ソイツは始原にして終末の生命と言われている通り、命を終わらせる神でもあるのだ。特に水晶を見てはいけないよ。ゾン・メザマレックという表面が一部ひしゃげた水晶で、その水晶を見たものは前世の自分を見る事になる。前世へ前世へと転生を繰り返し、やがてはソイツが産み落とした単細胞生物と同化してしまうのだ」


「じゃあ、世界が違うなら関係なくない?」


「たしかに」


「ショウちゃんはどう? ここに見覚えがある?」


「ノン。見覚えはありません」


 ショウはふるふると首を横に振ると、どこか嬉しそうに繰り返した。「見覚えはありまセン」


「良かった」


 しばらく歩いていると前方に何か細長いものが見えた。


「あれは……」


 目を凝らすと人の形をしているように見える。影は僕たちを待ち構えるように揺らめいて立っていた。逆光であるため顔までは判別できない。けれど、王の手先である冒険者があと一人いる事を思い出した僕は「敵だ」と二人の前に出た。


「あれが最後の一人?」


「だと思う。でも、こんなところでわざわざ待つくらいだから他に仲間を呼んでいるかもしれない」


「たしかに」


 影が動く様子は無い。こちらの出方をうかがっているのだろうか。


「あの三つ編みの女の子だよね」とよぞらが隣に来て言う。「ゲートの準備はできてるよ」


「うん」


 僕たちは足を止めた。しかし、影は近づいてくる様子も無ければ逃げる様子もない。


 変だな、と思いながらもにらみ続けていると、とつぜん影が前のめりに倒れたではないか。そして、聞き覚えのある声が影の向こうから聞こえてきた。


「よく来たね、異世界の子供たち」


「……ヘレナさん?」


「うん。待ってたよ」


 倒れた影の後ろから現れたのはヘレナさんであった。デズモンドという男と戦っていたはずのヘレナさんがなぜ、僕たちより先にここにいるのだろう?


 よぞらが警戒心をあらわにして「ずいぶんお早いですね」と言った。彼女ははじめからヘレナさんを信じてはいなかった。


「私の魔法が役に立ったようで何よりよ。本当はあなたたちを足止めするために渡したのだけれど、ま、結果オーライってとこかな」


「あの小瓶……やっぱりあなたもあたしたちを捕まえるために」


「捕まえるため? 違うな。アレを葬るためよ!」


 辺りの泥沼が鳴動を始めた。大きな波が小さな波を押しのけるようにしてさざ波が立ち、それと同時に蒸気が激しく噴出する。


 僕たちは知らず識らずの内に身を寄せ合った。


 鳴動はさらに激しさを増し、これから現れるモノの壮大さを知らしめるようである。


「ヤバい事になる前に逃げよう!」と尻ポケットに手を入れてよぞらが言う。


 僕とショウはすぐさま賛同したが、ふいに足元に生暖かい粘液がぶつかって同時に悲鳴を上げた。まるで海から顔を出したアザラシのように足元の泥水が興隆している。慌てて足元を見ると、興隆した泥水に口のような隙間がバコリと開き、海のうねりのような叫び声をあげた。


「アレこそこの世界を作り上げた神。ショゴスよ」


 ヘレナさんが示した先に一つの山が出来上がっていた。泥沼の水が意志を持っているように寄せ集まり、その山を作り上げた。


 出来上がった山は玉虫色に明滅していた。


 ヘレナさんはその生物を満足そうに見上げる。


「こうなればもう姿を隠す必要もない」


 ヘレナさんを中心に小さな竜巻が起こった。それはほんの一瞬の出来事であったが、竜巻が収まってみればその容姿が一変している。


「私こそがこの世界の女神。イルル・ヤンカルルシュだ」


「お前は……あの時の」


 そこにいたのは、数日前に僕たちを襲い倉科を連れて行った桃髪の少女であった。

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