第44話


 馬車の外からモノスゴイ悲鳴が響き渡り僕たちの耳をつんざいた。


「そんな神様を祀ってる遺跡が壊れたらどうなると思う? 祀っていたショゴスが世に放たれたら誰が制御するの? とうぜん一国の王としては、排除したいわよねぇ」


 ヘレナさんは深い切れ込みの入ったスリットから白い液体の入った小瓶(メスシリンダーのようなものだった)を取り出した。スズランのような匂いが強くなる。芳香剤の原液をこぼした時のような濃い香りに思わずむせ返った。


 僕はなぜ疑わなかったのだろう。


 ヘレナさんは香りを振り回すように小瓶を揺らしながら「馬車で崖上に移送して、事故を装い一網打尽にする。まったく、品が無いわ」とため息を吐いた。


 馬車は崖の中腹にある一本道を走っている。どうして車上で襲われることを疑わなかったのだろう? 標的が一塊になって孤立している状況を敵が狙わないワケがないじゃないか。まったく、ヘレナさんのステキなお姉さんぶりに惑わされたとしか思えない。


 今も香りを振りまき続けるヘレナさんの姿はとても妖艶であり、むせ返る強い芳香すらも彼女のお姉さんぶりを演出する仕掛けにさえ見える。特にスリットの深さには目を見張るものがある。文字通り。


 ゆえにヘレナさんが敵には見えなかったのだけど、僕が見とれている間に攻撃はすでに始まっていたようで、ショウを守るべく立ち上がろうとヒザに力を込めたときあべこべに力が抜けるのを感じた。


「な、なんだこれ!?」


 僕は考える人のような態勢のまま床に倒れ込んだ。


 この香りは麻痺毒のようなものなのだろう。激しい音を立てて側頭部をぶつけたにも関わらず痛みを感じなかった。目の前に床があるのが信じられなかった。まるで固い粘液に包まれているように手足が動かない。


 頭の向こう側でゴトンゴトンと音がした。目をクルリと向けるとショウが倒れているのが見える。


御者ぎょしゃはもう死んでしまったかしら」


 僕は夢の中のようなもどかしさを覚えながら必死に叫んだ。


「何をした、答えろ!」


「ごめんなさいね。少しの間我慢してちょうだい」


 ヘレナさんは厳しい口調で言うと、天井に目を向けた。「もうそろそろだと思うのだけど……」


「何がだ!」


 僕が聞き返そうとした次の瞬間、天井と壁の境目を巨大なのこぎりが貫いた。


 仲間が到着したらしい。


 のこぎりがギコギコと不快な音を立てて木片を弾き飛ばしていく。やがて空いた隙間に指が差し込まれ、「ううううぅぅぅぅるぁぁぁぁぁぁ!」という獣のごとき咆哮とともに天井がメリメリと音を立て、ゴバッと、あっという間に剥ぎ取られてしまった。


 ぽっかり空いた天井に膝を立てて座っていたのは、頭にバンダナを巻いた上裸の男であった。


「よう、すべて手はずどおりだな」


「ええ」


「あとはこいつらを調理しちまえば仕事は終わりか? ふん、味気ない」


 どうやら四人の冒険者は全員王の犬らだったしい。


 男は荒々しい音を立てて車内に飛び降りるとショウの頭をむんずと掴んだ。


「これが例のカミサマか?」


「そのようですね」


「ふん、伝承とは比べものにならんくらいちんこいな」


「ここまでは想定通りスムーズに進みましたね」


「あっけないくらいさ」


 男はショウを投げ捨てると首を鳴らしながらヘレナさんを振り返る。「で、どこいくんだっけ?」


 ヘレナさんは当然のように「崖下です」と答える。


「なに?」


 男が目を見開いたが、ヘレナさんは涼やかな顔を崩さずに言った。


「ここまでは想定通り。これからも、想定通りです」


 次の瞬間、馬車がいびつに跳ねた。重く柔らかいものを踏んづけたようにつんのめるような跳ね方だった。動物かなにかだろうか。車輪を通して嫌な感触が伝わってくるようだ。


 男がにわかに気をたかぶらせてヘレナさんに掴みかかろうとしたが、タイミングよく馬車が跳ねたために男はバランスを崩して壁にぶつかった。


「アレを制御できるのは駒谷のみ。異世界のショゴスを従えた彼ならこの世界のショゴスだって従えることができるでしょう」


 ヘレナさんが何を言っているか理解するには時間が足りなかった。


 歪に跳ねた馬車はそのまま制御を失ったように左右に揺れ始め、ついには足を踏み外したように大きく傾いた。


 ヒヒィィィィンンと馬のいななきが轟いた。


 僕たちはそのまま真っ逆さまに落ちていった。

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