第30話


 僕はよぞらたちを追いかけた。これぞ怪我の功名と言うべきか。倉科のおかげでスムーズに事を運ぶことができた。彼は叱られて落ち込んでいるだろうが、しかしそれなりに悪い。


 彼女たちは図書室へと入っていった。


「話したい事があるからよぞらを引き留めておいてくれ」とショウにテレパシーを送ったから、うまい事やってくれたのだろう。僕は急いで後を追ったが、しかし、困難はいたるところに転がっているものである。


 それはとつぜん現れた。


 廊下に一条の煙が立ち昇った。それは空中で渦を巻き動物のような形になっていく。鋭い爪を備えた前足が生え、ひどくやせ細った胴体を持ち、尻尾はちぎり取られたように短い。煙がそのまま生き物になったみたいにそれの姿はたなびいていたが、しかし燃えるように輝く目と口のような裂け目から伸びる舌はハッキリと視認することができた。それはおぼろげながら狼のように見えた。


 狼は廊下に降り立つと臭いをかぐように頭を揺らした。そして何かを探すように歩き出すと……その前足がぐにゃりと歪んだ。しかし狼が気にしている様子はない。狼は歩くたびに姿かたちを変えながら廊下を歩き回った。


「――――っ!」


 思わず声を出すところだった。


 異変を察知した僕は素早く廊下の陰に身を隠した。もはや何度目か知れぬ異世界的ハプニングに体が反応したと言うべきだろう。狼の形が出来上がる前に姿を隠すことができたのは幸いだった。このまま逃げることも可能であろう。しかし、逃走に成功したとして何の役に立つのであろう? 何よりも恐ろしい事は、という事なのだ。


 それは古い小説でティンダロスの猟犬と呼ばれるクリーチャーだった。神に等しい力を持ち、姿を見たものや時間を遡ろうとしたものを執拗に追いかけ殺してしまう。猟犬は時空を飛び回り角度を通じて出現するという、かなり特殊な設定が付与されている。鎧の男が死の間際に呟いた言葉を思い出していただきたい。「部屋を円で満たす」これが猟犬を指して言った言葉であることは容易に察しが付くであろう。


 僕は常々ティンダロスの猟犬に警戒はしていた。しかし彼らは姿を見る、あるいはこちらを見つけた場合に襲ってくるのである。だから安心だと思っていたのだけど、本当に恐ろしいのは彼らの執念である。猟犬はたとえ億単位の歳月が離れていても追いかけてきて殺すのである。小説ではそうだった。


「この世界に来たという事は僕たちを見つけたという事だろうか? だとしてもおかしい。鎧の男が死んだとき僕たちの姿は見られていないはず。だったらなぜ、ここにいるのだろう……?」


「あなたを殺すために私が呼んだからよ」


 背後から声がした。


 驚き振り返ると桃色の髪を持つ少女がいた。


「君は?」と訊ねると、少女は僕のポケットを指さしながらこう言った。


「それの差出人よ」


「……なるほど。そういうことか」


 ポケットの中には昼休みにもらったラブレターが入っていた。帰り支度を済ませているときに忘れかけて、慌てて詰め込んだのだが、それが功を奏したらしい。手紙の角から再び煙が立ち昇り始めていた。


「ということは、あんたも巫みたいなヤツってことか」


 クリッとしたつぶらな瞳とたまのように澄んだ頬が、見る者の目を潤わせるように美しい。身長は140センチくらいだろうか。僕の胸元くらいの小柄で瘦せ型の少女であったが可愛いとは思わなかった。むしろ、怖い。


 つぶらな瞳に浮かんでいるのは冷たい殺意であった。お前を排除すると言わんばかりの冷徹な表情にはさすがの僕も鳥肌が立った。


 少女は僕を見つめて言った。


「あなたが連れてきたアレは私がもらう」


「そのセリフ、どっかで聞いたな」


「アレは私の世界でこそ真価を発揮する。この世界にいては宝の持ち腐れというものよ」


「会話はできないみたいだね。なら」


 僕は足に力を込めると、言った。「逃げるが勝ちだ!」


 そして走り出した。


 この学校にはよぞらがコッソリ開けた帰宅用のゲートがある。通学路の坂道を登りきったところに桜の木がズラッと植えられている。ソメイヨシノという一般的な種類であるが、ご丁寧に名前を書いた看板を備え付けられている。その看板の裏によぞらがゲートを作っているのである。「どうせ誰も見ないしいいじゃん」と言っていたが、まさか有効活用する日が来るとは思わなかった。


「待ちなさい!」と少女は言うが、僕の脚はスイスイ動いた。


 彼女からは巫ほどの恐ろしさは感じなかった。同じような威圧感とオーラを感じるけれど、どこか新米警官のような安っぽさがあった。むしろ「頑張れ」と言いたくなるような後輩感すら抱くほど。


 少女は慌てて叫んだ。


「ちょっと待ちなさいってば!」


「やなこった! どうせ殺されるんだろ!」


「あ、あんたが素直に手紙を読んでたら殺しはしなかったわよ!」


「ふん! あんな手紙で騙せると思うなバーーーカ!」


「むきいいいいいいいい!」


 少女は珠のような頬をぷるぷる震わせて叫んだ。「これは不敬罪よ!」


「魔物たちよ、アイツを殺せ!」


 少女が手を振りかざすやいなや廊下の角という角から煙が噴出した。それらはすべて狼の形になり襲い掛かってくる。あたかもプロレスラーが入場するときのようなスモークであったが、真に入場してくるのは煙の方であって、僕は一方的に殺されるだけのサンドバッグにすぎない。


「こいつらは角から現れる。……だとしたら学校ってヤバいんじゃないのか!?」


 廊下は見渡すかぎり角に包まれている。廊下の突き当りや曲がり角。教室の入り口、天井との境目や、窓、その他いたるところに角がある。これすべてが猟犬の出入り口になるのだから逃げきられるワケがないだろう。


 階段を飛び降り、壁にぶつかり、とにかくがむしゃらに逃げたが、やはりいつか終わりは来る。


 何かにつまずいて転んだとき、気づけば、周りは猟犬に囲まれていた。

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