第24話


 巫の周囲が歪んでいく。校舎や窓が不規則に湾曲する。まるで水の中にいるみたいにグニャリグニャリと絶え間なく流動し、その形が毀れていく。僕はとたんに息苦しくなった。鼻をつき胸をムカつかせるアルコールのような臭いが息苦しさの原因であった。


「なぜ忠告を聞かなかったのか。異世界ごっこをしているだけなら見逃したというのに」


 巫は処刑人のように冷徹な声で言うと、手を伸ばしてくる。その一挙手一投足に合わせて空間は形を変え、渦を巻いた。まるで水が対流を起こすようだった。


 殺される。


「駒谷ゆう。お前はこう思ったことはありませんか? なぜ天ケ瀬よぞらが自分を選んだのか、と。お前はけがれている。お前がよぞらを狂わせたのです」


「いきなり何を、言い出すんだ……?」


「その穢れを、いま、清めてやろう」


 僕は逃げようとした。しかし、手足は痺れて動かず、目玉がクラクラした。神経毒でも盛られたみたいに前後不覚に陥り、脳髄がほどけてバラバラになるのが分かった。


 逃げられない。そう諦めた時だった。


「ディストラクション! 離脱しマス!」


 リストバンドが突然泡を吹いた。ぬらぬらとした玉虫色の泡が手首を覆い、間欠泉のように二本の柱が噴き出すと、すぐに茶色く変色し鷹のような羽になった。


 羽は泡を振り払うように小さく羽ばたくと、三度目で大きな推進力を生みだし、僕を力強く引っ張った。


 見る間に距離が離れていく。


 自販機は中庭に設置されている。


 大空目指して少女は羽ばたいた。しかし、それでも逃げ切る事は出来なかった。


「****」


 巫が何かつぶやいた。それは僕には聞き取れなかったのだが、少女には効果があるらしく羽がドロリと変質した。異世界の者にだけ効く呪文だろうか。推進力を失った僕たちは地面に墜落し、動くことができなかった。


 少女の体はドロリドロリと融解していき、地面に倒れ伏して動くことのできない僕の周りに広がっていく。まるで血だまりのように体をひたし、強烈な日光を浴びてぬらぬらと輝いた。


「やはりお前は出会っていたか」


 足音もなく巫が近づいてくる。


「しかし……ほう? お前になついているようだ。ならば一つ試してみるか」


 巫は僕たちをジッと見下ろしたまま、再び何かを呟いた。すると、ゼリー状に溶けていた少女が体を取り戻し始めたではないか。逆再生の映像を見ているようだった。広がっていた粘液がうにょうにょと吸着し盛り上がっていく。


 やがて、人の姿を取り戻し見慣れた水色柏餅に戻った少女は僕を助け起こすと、懐にしがみついて頭をコスリ付け始めた。僕が「おい、何を?」と声をかけても反応はなかった。どうやら意識は無いらしい。


 巫はその様子を静かに観察していた。


 僕は訊ねた。


「これは、どういう事だ?」


「それは人類よりもはるかに下等でおぞましい生き物です。人に仕えていた時代もあったがそれもいにしえの事。反旗を翻し戦争を起こしたかどにより、いまはただ、生物の住めない極寒の地に封印されている哀れな道具にすぎない」


「僕はこの状況を説明してほしいんだけど」


「……つくづく変わった男だ」


 僕は少女を引きはがそうと努力したが無理だった。とても力が強い。子ライオンにじゃれつかれているみたいに強く圧迫されてとても苦しい。しかし、体温はあるし、餅みたいに柔らかいし、「ん……んぅ……」とときおり漏れる声が幼児そのものであり、どうにも人と戦争した危険生物には思えなかった。あと、お日様のような匂いもした。


 ひとしきり格闘したのち、僕は引きはがすことを諦めて巫を見上げた。


「一つ言っておくが僕が封印を解いたわけではないよ。鎧の男が解いてかくまっていたらしい。その鎧の男が死んだのでよぞらが面倒を見ると言い出したのだ」


「そんなことは知っています。私は、なぜお前如きがソレを従えているのかと訊いているのです」


「それこそ僕の知ったことではない。よぞらが手懐けたんだ」


「それも違う。ソレはお前を助けた。そのとき何があったのか、言え」


 言えと言われたって困る。僕は、よぞらが家に泊めている間に手懐けたのだろうと思っているが、巫はそれ以前に少女が懐いていると考えているようだ。僕は石造りの塔での事を思い返してみたが、何も思いつかない。「何があったのか……ふむ、何もなかったよ。気づいたらコイツがそばにいたんだ」


「つかえない男だ」


「悪かったね」


「ソレは人を喰います」


「え?」


 巫は聞こえなかったのかというように繰り返した。「ソレは人を喰う。なぜなら、人はソレを奴隷として扱った憎むべき存在だからです」


「いやいやいや、超危険生物じゃないか。なんで巫は平然と眺めているんだ? 僕が今まさに食べられるかもしれないというのに?」


 僕は文句を言ったが、巫はフイと視線をそらして素知らぬ顔をした。


「別にお前が食べられようが、私の知ったことではありませんから」


「それは、そうだけど………」


「だがお前は喰われていない。しかも手懐けてさえいる。それ自体が評価に値することなのですよ」


「……そりゃどうも」


「喜べとは言っていない」


「…………………」


 気難しいヤツだ。と僕は思った。


 ふと僕は時刻が気になった。予鈴が鳴ったのはずいぶん前の事であるし、そろそろ一限が始まるのではないか。そう思うと、ここで少女が姿を現している事態が逼迫ひっぱくしたものに感じられてきた。「これ、どうやったら元に戻るんだ?」


「戻してほしいですか?」


「当たり前だろ! 授業に遅れたら何を言われるか」


「だったら、そうですね。一つ余興をいたしましょう」


 そう言って巫は少女の頭に触れた。

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