第20話


 よぞらと駅で別れて一人で通学路の坂を登る。左手に重いものがくっついているせいか、歩き慣れたはずの勾配がとたんに厳しく感じられた。加えて夏も盛りの七月下旬のこの気温。僕はタクラマカン砂漠を彷徨う旅人のように汗を流しながらどうにか足を進めた。


「デンジャー。一日の平均発汗量を超えテイます。ただちに休息をとってくダさい」


「ええい、誰のせいだと思っているんだ。ちくしょう!」


 男が消失する直前に呟いた「円で満たす」という言葉の意味について僕は昨日からずっと考えていた。その結果。僕は一つの知見を得た。すなわち男を連れ去ったものは『条件が揃った時のみ出現できる』のではないか。


 死を悟ったような男の口調からは「手を尽くしたが逃げ切ることができなかった」というような諦めが見て取れる。しかしながらこの世界に来たときは魔力切れを懸念していたし、初めて出会った時も襲撃を恐れていた様子はなかったように思う。それはつまり、追跡者が出現する条件が揃っていない状況では恐れる必要が無いことを示す逆説的な証拠になるのではないかと、僕は思うのだ。


 思い返してみれば、あの小部屋はすべて丸で構成されていたようだ。丸い窓。不規則な形の石が敷き詰められた石畳。階下へ降りるために開けられた階段用のスペースでさえも丸い形をしていたし、その階段も角は無く、丸く磨かれていた。壁にたてかけられた武器類も角がなかった。


 ところが男はこうも呟いた。「娘が希望と絶望をもたらした」と。


 それはつまり、よぞらのゲートが四角形であったから男は絶望したのではないかと僕は考えた。


 もちろん、こう考えるだけの理由がある。それはとてもバカらしくて普通なら口にもできないが、異世界に行ける幼馴染を持った僕だからこそ、むしろ信ぴょう性を帯びるのである。昔読んだ小説に『角度』を通して出現するクリーチャーが登場した。それは一億年以上昔の地球に棲息しており、一度姿を見てしまうとモノスゴイ速さで時空を超えて追ってきて、見た者を殺してしまうのである。それは部屋の隅やテーブルの端、小説の背表紙でさえも該当する。直線と直線が交わってできる角度ならどんなものでも追跡経路になる。そういうクリーチャーだ。


 もしこのクリーチャーが実在するとしたら、部屋を丸で埋め尽くしていた理由も納得できるし、四角形に絶望した理由も説明がつく。そして、僕たちを階下へ移動するよう促した理由も、クリーチャーから逃すためと考えれば、ただニヒルを気取っていただけでは無いことが分かるだろう。


 そしてもし本当にこのクリーチャーが男を消したのだとしたら、僕たちは安全だ。


 そのクリーチャーは姿を見た者、目が合った者だけを殺害する。だが、僕たちは姿を見ていないし、見られてもいない。だから僕たちは安全だ。


「デンジャー。デンジャー。危険です。ただちに休息をとってくダさい」


「ああもう、うるさいったら!」


 僕はカナリアのように鳴き続ける少女を耳元に持ってくると小声で言った。「あんまり話しかけるな。誰かに聞かれたらどうするんだよ」


 暑さと疲労で気が尖っていたのもあっただろう。語気が鋭くなってしまった。しかし少女は無邪気に聞き返してきた。僕の苛立ちが理解できないようだ。


「ホワイ。なぜでしょう?」


「君の存在が異質すぎるからだよ。君みたいなのはこの世界に存在しない。そもそも人間を始めとしたあらゆる動物の姿かたちは太陽や重力の影響で出来上がったものなんだよ。骨格や筋肉は重力によって形成されたと言っても過言ではない。君のように可塑かそ性のある体を持つこと自体が自然の摂理に反することなのだ」


「……? 理解不能」


「ああもう、なぜ分からないかな」


 しかし、こういった会話を往来で交わしているのも安全だと考えられるからこそできるのである。平和バンザイ。とはいえ警戒を怠らない。おそらく異世界で男を襲ったヤツとこの世界で僕たちを襲ったヤツは別ものなのだ。いつ何時なんどき襲われるか分かったものではないのだから警戒は怠るべきでない。「とにかく。君は静かにしてくれれば良いのだ」


「……そうデスか」


 そんな僕の警戒心を感じ取ったのだろうか。とつぜん頭の中に少女の声がこだました。


「クエスチョン。テレパシーなら大丈夫でしょうか」


「は?」


「ゆう。あんただけは私とテレパシーで会話することが可能です。声帯器官を使わず意思の疎通を図りたいならテレパシーが有用だと考えます」


「……まあ、もう、それで良いよ」


 僕はため息をついた。「すごい奴だよ。お前は」


「え、すごいデスか?」


「うんうん、すごいすごい」


 僕はもう理解することを放棄していた。度重たびかさなる異世界的アクシデントに僕の脳髄のうずいは爆発寸前であった。皴深き脳の谷間に次々詰め込まれる非日常の数々。それらはよぞらの陰謀によって蓄えられた異世界転生モノの知識と結びつき、ニューロンの発火を引き起こした。「あ、ここ、前に漫画で読んだとこだ!」と某ゼミの学習講座のCMみたような発見を繰り返した僕の脳は勉強疲れに似た疲労を覚え、もう何も見たくないほどに疲れ切っていたのである。


 少女と話している間も脳がミシミシと音を立てるようであった。これ以上この子と話したくない。変身だのテレパシーだの、どれも漫画やアニメでおなじみの超能力だ。現実にあれば良いのになぁと思っていた力が目の前にある。それは不覚にもよぞらの超能力を初めて見たときの感動を思い出させた。だからもう見たくない。満腹だ。食指が動かないのである。


 それでも襲撃者は警戒せねばならない。空はこんなにも青く雲はゆったりと流れているのに、どうして僕はこんなにも追い詰められているのだろう?


「えへへ、すごいですか。ソウですか。えへへへへ………」


 僕はため息をついた。


 坂の上を見ると、まだまだ先は長い。


 僕はまた、ため息をついた。

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