第18話


 日本に新たな不安と混乱の種が生まれているとはつゆも知らない僕たちは、ひとまず石造りの塔へと逃げ込んだ。拷問器具のように大きな武器類が壁に立てかけられている物騒な小部屋は昨日となんら変わったところが無く、なぜだか懐かしさを覚えた。


 石畳に座り込んでホッと一息……をつく暇もなく、新たに浮上した問題に僕たちは困惑していた。


「リクエスト。動かないでくださイ。ただいま治療中です」


「……とか言いながら傷を舐めてるだけだよね」


「だな。なんだこの水色の柏餅は……。いてて……」


「いてて、ですむ傷でもないと思うんだけど? あんたって昔から頑丈よね」


「まあ、剣が刺さったままだったから、栓の役割を果たしてたんだろう。そこの鎧から薬ももらったし、見た目ほどひどくはないよ」


「ふぅん……?」


「…………………」


 鎧の男は無事に連れて帰る事が出来た。壁に背を預けて置物のように静かにしているこの男から、封印していたという『アレ』について話を聞く。右腕が消え、鎧の端々がネズミにかじられたように削れているが、男は生きていた。しかし息は絶え絶えで、いくばくの命も無いように見える。


 男は魔力を求めて喘いでいた。


「ねえ、アレって何のこと? あなたは何を守っていたの?」とよぞらが訊ねた。「それに、あまり回復していないように見えるけど……本当に大丈夫?」


「じきに治る。この世界には魔力が豊富にあるからな」


「そう……」


「……本来、世界には魔力が不可欠なはずなのだ。どうしてあの世界には無かったのか。どうして貴様らが魔力無しで生きていけるのか。理解ができない」


 男は今にも倒れこんでしまいそうな咳をした。「あるいは、ソレの記憶と何か関係があるやもしれんが……」


「ソレ。なあ、アレとかソレとか言われたって分からんよ。この柏餅の事を言っているんなら、名前くらい教えてくれないか?」


 僕はそう言って腕にしがみついている水色の髪の少女を見た。


 年のころ八歳ほどの幼い少女がいつの間にか僕の腕を掴んでいた。この世界に着いた時にはもういたようであるが、いつ現れたのかが分からない。大福のようにポテッとしたまんまる体形。肌はマシュマロのように柔らかく、水色の髪の毛が光の加減で緑にも黄色にも輝き、いかにもファンタジーである。少女は小鳥を思わせる可愛い声で「治療シます」と言って、熱心に腕の傷を舐めていた。


「こいつさっきから僕の腕を舐めてばかりいるんだぜ。くすぐったいったらないよ」


「でも、なんだかかわいらしいわね。いつからいたのかしら?」と言ってよぞらはしゃがみこんだ。「お嬢ちゃん、そんなもの舐めたら汚いわよ~。お姉さんのとこにおいで~?」


「デンジャー。生体素子の流出を確認。たダちに治療が必要です」


「うんうん、そうだね。お兄ちゃんはこれから病院に行かないといけないからね。バイバイしようね」


「デンジャー。ただちに治療が必要でス」


 少女はどうやら敵ではないらしい。一心にしがみついて『治療』に専念する姿は愛くるしく、子猫が毛づくろいするようなほほえましさを醸し出している。しかし舐めて治療しようとはいささかおぞましいように思う。人の姿をしていながら野性的な治療方法に固執する。まさしく異世界のモンスターというべき仕草に僕は困惑した。子ライオンにじゃれつかれたような心地だ。


 男が静かに口を開いた。


「ソレには名前が無い」


「名前が無い?」


「そうだ。ソレには名前も、記憶もない。ただ動物のように感情の赴くままに行動しているだけだ。少なからず知性はあるようだが、それもどこまで信用できるやら分かったもんじゃない。だから俺は、ソレを捕らえる事にしたのだ」


「捕らえて、どうするつもりだったんだよ」


 男は空を見上げた。窓の外に広がる空は薄い黄色がかったうろこ雲。男はやや緊張したような面持ちで「偉大なる白き空間」と呟いた。


「なんだそれ」


「ソレは偉大なる白き空間の向こう側にいた。そして私は見てしまったのだ」


「………………」


「ソレは守られているようにも、封印されているようにも見えた。だから俺はそれを連れだした。ソレは無限の可能性を秘めている子だ。この宇宙を丸ごと作り変えてしまえるほどの大きな力だ。しかるべき時のため。いずれ相まみえる運命のために守ってやろうと決めたのだ」


 男が何を言っているのかさっぱり理解できないが、男の口調は徐々に深刻さを増していった。まるで自分には時間が残されていないとでも言うような鬼気迫る様子に圧倒されて、僕は何も言えなかった。


「だが、俺はアイツらを見てしまった。不浄なるモノ。角を通して顕現けんげんするおぞましい犬を。だから俺は―――――――」


 男がピタリと口をつぐんだ。


 僕が先を促すと、男はフッと笑って「下の階へ行け」と言った。


「下の階に何があるんだ?」


「ソレの体液はどんな薬にもなる万能薬でな。ほら、小僧。お前の腕の傷がもうふさがり始めている。下の階に包帯があるから、巻いて大人しくしておけ。戸棚の高いところにあるから、娘、お前が付いて取ってやると良い」


 腕に目をやると、たしかに傷がふさがっているようだった。異世界の魔物の所業だから何がどうなって傷が治ったかなど考えたくもなかった。「ああ、親切にどうも。でも、なぜ急にそんなことを?」


「いいから行け。俺はじきに回復する。聞きたいことがあるならお互いが回復してからでも遅くないだろう?」


 男の言うことは一見正しいように見える。


 僕がよぞらを見ると、よぞらもまた僕の方を見て頷いた。


 なんだか帰ってくるころには男が死んでいるような。そしてそれを男自身が悟っているような寂しさがあった。


 しかし死に際を見られたくないという思いは理解できる。


「おい、君。そろそろ離してくれないか」


「もう少しで治療が完了します」


「包帯があるらしいから大丈夫だよ」


「そうでスか」


 少女が離れたのを見て、僕たちは三人で階段を降りた。


 去り際に男が一言。「円で満たしたつもりだったが……。ふ、娘が希望であり絶望でもあったか」と呟いた。


 包帯を巻いて戻ると、男はもう、どこにもいなかった。


 おそらく異世界中を探し回っても見つける事ができないだろう。


 僕たちは仕方なく少女を連れて帰った。昼間の少女も、放課後に襲ってきたヤツも、おそらくはこの少女を狙ってきたと思う。これからどうするかはおいおい決めるとして、ひとまずは命がある事を感謝するべきだろう。


 男の最期は、なんだかそう思わせるくらいの寂しさがあった。


 これからどうなるかは分からないが、襲撃者が現代のルールを守ってくれる事を強く願う。


 明日は金曜日だ。


「学校、休みにならないかなぁ……。無理だよなぁ……。ああ、休んだらまた何か言われるだろうし、行ったら行ったで何か問題が起こりそうで嫌だなぁ……」

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