第9話


「う、うわわわーーーーっ! やば、やばいよ!」


「ん……?」


「誰かがこの部屋に泊まろうとしてる!」


 服を脱いでパンツ一枚になったところで、よぞらがガウンを盛大にはためかせながら風呂場に突っ込んで来て僕を押し倒した。ホテルの利用客が現れるという想像にたやすい事態ではあったが、よぞらの動揺ぶりまでは想像できないであろう。慣れているのではないのか、アイツ。


「やばやばやば、めちゃヤバいよ!」


「何がやばいんだよ! 客がくるかもしれないって僕は言っただろ!」


「ヤバいからヤバいんだよ! マジでまずいんだって!」


「うわ!? ちょっ、おい!」


 ほとんど下着姿の彼女に驚くままに僕はもんどりうって倒れこんだ。


 言葉が通じない。どうやら下着姿で対峙しているという事実にすら気づかないほど動転しているらしかった。人が来たならゲートを開いて帰れば良いと思ったのだが、どうもそう簡単にいかないらしい。


 僕はひとまず彼女を落ち着かせて、あらためて何があったのか訊いた。するとよぞらは顔をあげて「人が来た!」と小声で言った。


「泊まり客か?」


「たぶんそう。いま、廊下の所にいるんだけど、ちょっと問題発生! あたし、ベッドに服置いてきちゃった!」


「見ればわかるよ! とにかく服をこっちに持ってきて、すぐにゲートを開くんだ。今帰れば見つからないから」


「きゃっ! ドアが開いた! 入ってきたよ!」


 よぞらはそう言って、さらに、僕に抱き着いてきた。お風呂上りのしっとり潤った肌が密着する。極上のシルクだってこの肌触りには敵わないだろう。吸い付くように柔らかい二の腕。レースのブラのチクチクした感触がやけに鮮明に感じられる。太ももは白熱電球のように熱く、しかも強く抱きしめられるのだから、僕は文字通り茹でダコのように真っ赤になってしまった。


「離せよ! 抱き着く必要ないだろ!?」


「静かにしてよ、見つかっちゃうでしょ!」


「じゃあ離れろって!」


「はあ!? 女子に抱き着かれて嬉しくないわけ!?」


 などなど、押し合いへし合い風呂場の中央で取っ組み合っていると部屋の方から声が聞こえてきた。中年男性らしき渋い声と青年らしきハキハキした声の二つである。どうやら客の中年男性をホテルマンの青年が案内しているようだった。


 僕達は声をひそめて外から聞こえてくる声に集中した。


『こちらが当ホテル自慢のロイヤルスイートルームでございます』


『ほお、これは…………ん、なんだこれは?』


『え、な、こ、これは……いったい?』


『どうやら前のお客さんはずいぶんワンパクな子供だったようだね』


『も、申し訳ありませんお客様! いますぐに片付けさせていただきます!』


『ああ頼むよ。妻が待っているのでね』


 そんな会話が取り交わされて客室は静かになった。


 僕たちは深い息を吐いて互いに見つめあい、ひとまず危機が去ったことを喜んだ。


 まさか異世界を渡り歩いて遭遇した一番の危機がこれになるとは思いもしなかったが、見つかった後の展開が容易に想像できる分、鎧の男に襲われたことよりも深刻さが違って感じられた。法や常識が天網のごとく縛り付けるこの世界だからこそ生きづらく、同時に安全なのだ。しかし、こうした質感のこもった恐怖はくぐり抜けても気持ちの良いものではない。


「よぞら、今のうちに服を取ってこよう。もう日本に帰るんだ」と、服を着ながら言った。


「ええー、もう終わり? あたしはまだ帰りたくないよ」


「次はどこへ行こうっていうんだ? イギリスか? フランスか? なあ、もういいだろ? 寝床を探して不法侵入を続けるなんて僕は御免だよ」


 どうせ味わう危険なら異世界的な命の危険の方がまだマシだ。死んだら終わり、生きるか死ぬかの瀬戸際の方が爽快感があると思う。こうしたリアルな危険はくぐり抜けたとしても、その影響は依然変わらず、法律の名のもとに僕たちを縛り付ける。しかし異世界の危険はくぐり抜けたらそれで終わりなのだ。どっちが楽かは考えるまでもない事だし、もっと言えばどっちも味わう必要が無いのである。「これから異世界に行ったって寝床を探すハメになるんだろう? だったら家に帰った方が百倍マシだ」


「むぅ……あんたならわかってくれると思ったんだけど…………。あたしは異世界の方がマシ。現実なんて楽しいことは一つもない!」


 よぞらはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


 結局、彼女が何を思って異世界に行こうと言い出したのかは分からずじまいだ。何を苦に思い、何から逃げようとしたのかは当人にしか分からないことである。僕がむやみに踏み込む領域ではないし、そもそもよぞらはそういうことを話したがらない。だから僕は、自然と話を流す癖がついていた。


「はいはい、今度ゆっくり聞くから今日は帰ろうな」


「なにそれ、あたしが子供みたいじゃないの」


「そうとは言ってないだろ。というか、いつまでこの格好なんだ君は」


「は? 何言って―――――」


 と言いかけたよぞらが口を開けたまま固まった。


「どうした?」


「あれ、まって、あたし、あたし…………ほぼ裸………?」


「まあ、下着が丸見えではあったな。あれだけ前紐を締めろと言ったのに締めないから」


「いやーーーーーーーー! 変態ーーーーーーー!」


 どうやら、自分が下着のままだということを忘れていたらしい。


     ☆ ☆ ☆


 紆余曲折あったのち、ようやく僕達は現代日本に帰ってくることが出来た。家に帰りついたのは午後10時を過ぎてからの事。自室に降り立った僕たちを迎えたのは鬼のような形相をした僕の両親と、おろおろと不安そうに部屋中を見回すよぞらの母だった。お互いの両親にこってり絞られたのち、僕はようやく風呂に入る事ができた。


 就寝前によぞらからこんなラインがきた。


『今日はごめんね』


 内容はそれだけだった。しかし、これだけだからこそ、よぞらが落ち込んでることがありありと伝わってきたので『今度は門限守ろうな』と返して目を閉じた。


 これでよぞらの異世界病も落ち着くはずだ。もしまた異世界に行こうと言い出すことがあったら、そのときは少しだけ付き合ってやっても良いかもしれないが、しばらくは借りてきた猫のようにおとなしくなるであろう。よぞらの両親はとてもおとなしい人である。ハッキリとものを言うよぞらとは似ても似つかぬほどおとなしく、娘にさえ面と向かってものが言えないほどだ。そんな天ケ瀬家だが親子仲はとても良く、よぞらが反抗的な態度をとったことはほとんどない。たった一度だけ僕と異世界に行ったことがあるが、僕の知る限りではそれっきりである。よぞらとしても両親を悲しませたくはないだろう。 しかし、今日の事を忘れたころにまた言い出すであろう。


 僕はそう考えてため息とともに眠りについたのだけど、事態は思わぬ方向へと動き出していた。


 翌日の朝、テレビからこんなニュースが流れてきた。


『昨日未明。とつぜん、富士山が二つに割れました。原因は不明ですが、保存会の証言によると、近くに黒い鎧を着た男を見たという情報が入っています。警察は、危険だからしばらくは登山を控えるようにとのコメントを残しており―――』

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