第104話 2年前のあの日⋯.2

「もしかしたら純は……無意識にここへ来て、失くしたものを見つけようとしているのかもしれないわね」


 そう言って私を見つめる、その視線には、どこか私に期待するようなものが含まれている気がした。


「水族館へは……どうして?」


 突然訊かれて、一瞬戸惑ってしまった。


「えっと……私が誘いました。中学のときに一緒に行ったことがあって、何か思い出してくれるかと思って」

「ありがとう」


 お母さんは小さく微笑んでいた。


「もしかして、ベニクラゲ?」


 お母さんがふっと笑った瞬間、鳴海君と水族館で過ごした時間が脳裏に浮かんだ。


「……あ、そうです」

「純の父親が水族館が好きでね。よく二人で行ってて。訳のわからないウンチクを垂れながらね」


 お母さんの顔からは、遠くにある何かを懐かしんでいるように見えた。かけがえのない思い出の一つをかいつまむように、その大切な一つを私に伝えようとしてくれている。


「何やらクジラの鳴き声にはアルファベットみたいな構造があるのだとか言い出して、もしかしたら人間と話せるかもしれないっとか言ってたりね」


 私もその話に、思わず笑みを浮かべてしまう。


「クジラと話すのが二人の夢だとか、ほんと、おかしな親子でしょ?」


 お母さんの笑みの中にある、鳴海君とそのお父さんの姿が、私の頭の中にもぼんやりと浮かんだ。



 家に帰るまでの時間が、こんなにも嫌だと思う気持ちを、窓の外に見える夕焼けのせいにした。

 電車の揺れに身をゆだねるように座席に体を沈めると、母さんの顔が浮かぶ。


 心配してるだろうな。

 俺はどんな顔で会えばいいのか。


 今日のことを話すべきか、それとも何もなかったふりをするべきか。どちらを選んだとしても、きっと二人ともまともに話せないだろう。

 記憶を失っていることを黙っていた理由。

 それがどれだけ重いものであったとしても、俺にはそれを受け入れる準備ができていない。

 あまり心配をかけたくないと思う感情が、俺の空っぽな心にじわじわと広がり、出口のない寂しさを強くする。

 座席に並ぶ人たちの姿が目に入り、皆んなきちんとした形でそこにいるように見えるのに、自分だけが何か違う気がした。

 まるで、色や形が基準から外れて、廃棄される不揃いの野菜みたいに。傷や歪みは、自分ではどうすることもできないのに、価値がないと決めつけられている気分だった。

 目を閉じると、夕陽の熱をまぶたに感じ、俺はひっそりと、今日という日にさよならを告げた。

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