第102話 煙のゆくえ

「父さん……俺、記憶喪失なんだってさ……」


 お墓の前に立ちすくんでいると、線香の煙がひとすじ、あかね色の空へと消えていく。


「皆んな、ひどいよね。俺に黙ってるなんてさ」


 きっと俺は、悲しい笑みが自然と浮かんでしまっている。

 全てがぼんやりと遠く、不確かで、自分の記憶さえ信じられない。こんな理不尽なことが本当にあるのだろうか。

 線香の煙が静かに揺れ、墓石の向こうには海が広がっている。夕焼けに染まった波が穏やかに押し寄せる音が、かすかに耳をくすぐる。


「……ごめん」


 声が震えていたため、熱くなる目頭をぐっと歯を食いしばる。泣きたくない。


「もし、父さんとの大事な記憶まで忘れてたら……」



「ちょっと待ってくださいっ!」


 反射的に声が出た。

 車内は静かで、運転手さんのラジオが小さく流れているだけだった。

 今日、鳴海君に起こった出来事は聞かせてもらった。そして、このタクシーは鳴海君のお父さんのお墓に向かっているということも。


「鳴海君……お父さんが亡くなったのは、小学三年生の頃だって言ってました」


 その言葉に、お母さんの顔に影が落ちる。短い沈黙が続き、深く息をついてから答えてくれる。


「亡くなったのは……中学一年生のときね」

「……でも」


 困惑する私を見て、お母さんは小さく首を振った。


「純がバスケットボールを始めたのは小学三年生。その頃は、父親の影響を受けて、朝から晩まで一緒に練習してた」


 お母さんは少し視線を落としてから、静かに続ける。


「多分だけど……純は、バスケットボールの記憶と一緒に、父親との記憶も失ってるんだと思うの」


 ——そんなっ⁈


 その言葉が胸に重く響いて、私には上手に受け止めることができなかった。

 どうしてそんなことが……?

 バスケを忘れたうえに、お父さんとの思い出まで——。



 ……父さん。


 無意識にここへ来てしまうのも、何か、忘れたものを探しに、足がこの場所を選んでいるのかもしれない。


「大丈夫……俺は泣かないよ」


 目を閉じると、幼いころの記憶がよみがえった。


***


 転んだ膝がひりひりと痛む。幼い自分が泣きながら地面に座り込んでいた。


「嘘泣きだろ?」


 父さんの声が耳に届く。手を差し伸べることはせず、じっと涙目の俺を見つめていた。

 泣き声を飲み込んで、必死に立ち上がる。膝の汚れをぬぐって顔を上げると、父さんは膝を曲げて目線を合わせ、にかっと笑った。


「よし、よし、純、頑張ったなー」


 大きな手が俺の頭をぐしゃっと撫でる。その感触が何よりも嬉しくて、自然と笑みが浮かんだ。


「でもな、純、本当に泣きたいときはいつでも泣いていいんだからなー」


 父さんはそう言って、まっすぐ目を見つめた。


「俺がいつだって抱きしめてやるからなっ」


 そう言うと、優しく俺を抱きしめた。大きくて温かい腕の中で、安心感に包まれた。


***


 記憶が途切れる。

 潮風に揺れる線香の煙が、まるで俺の記憶をさらっていくようだ。


「父さん……また来るよ」


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