第35話

 俺は気づいてしまう。目の前の大人を、ないがしろにした目で見ていることを。見下すような、冷たい自分の視線が嫌になる。

 抑え込もうとした感情が、一気にこぼれ出た。


「どうして教えてくれなかったの? ……何で黙ってたっ!」


 母さんの顔が一瞬、苦しそうに歪んで、それだけで、俺が何を訊きたいのかを理解していることがわかった。

 でも、母さんが次に絞り出したものは、結局、過去の延長線上にある言葉と同じだ。


「何があったの?」


 その痛々しく映る、自分の感情を無理矢理にでも落ち着かせようとする様子は、俺の苛立ちに油を注ぐだけだった。


「純、少し落ち着いて。ちょっと、一つずつ整理して、何があったか教えて」


 母さんはなだめるように言う。自分を取り繕うかのように、慌てた様子で続けた。


「ほら、お腹空いたでしょ? ひとまず、何か一緒に食べよ?」


 椅子を引きながら、震える声で言う。


「あ、そうだ、のども乾いたんじゃない? 何、飲む? お茶いれよっか?」


 そのはぐらかすような態度に心底がっかりした。この人は、結局、何もわかっていない……。

 どいつもこいつも、皆んな同じだ。

 バカにして……。俺の気持ちなんて、何にもわかっちゃいない。

 やっと今、ずっと抱いていた自分の中にあるモヤモヤの根源に触れたのだと思った。


 俺は何か——誰かをずっと待っているような気がしていた。

 でも、それはわからない。


 ……俺は何か——大切な何かを忘れている。


 俺は——

 記憶をなくしてたんだ。


 視界が滲んで、喉が震える。言葉を選びながら、一つ一つ押しころすようにして声に変えていった。


「母さん……。わかったよ。もういいよ」


 きっと、これ以上、この人に何を言ったところで無駄だから。



 鳴海君のおばあちゃんの家までは、この道を真っ直ぐ歩いて行けばいい。

 手提げ袋の中のカーディガンの重さを感じながら私は思い返す。

 家族に見つからないように洗濯して、こっそりと乾かすのは至難のわざだった。柔軟剤だって自分のお気に入りのものを使用した。

 鳴海君はそんなことを気にしない人だとはわかっていても、何となく気になってしまう。


 鳴海君、いるかな……。


 ありがとう、と笑った顔を思い浮かべると、足取りが軽くなる。



 目の前に目的の建物が見えた、その瞬間だった。視界の端に見覚えのある女の人が映った。


 あれ……鳴海君のお母さん?


 驚いて近づいてみると、その様子が尋常ではないことはすぐにわかった。髪は乱れ、肩で息をしながら、何かを探しているようだった。

 辺りををキョロキョロと見回して、その必死な様子に、私の心は落ち着かなくなる。もしかして——


「鳴海君に何かあったんですか!」


 思わず駆け寄って声を張り上げてしまった。

 お母さんは、私の制服をじっと見てから、息を整える間もなく話し始めた。


「あなた……野々原さん? 純と同じ学校……どうりで純が……」


 何かを言いかけて、言葉が途切れる。その掠れた声と焦った表情に、不安がさらに膨らむ。


「——鳴海君は⁈」


 たずねても、まともな答えが返ってこない。お母さんは、ただ震える声で訴えかけるように言葉をつなぐ。


「あの子……携帯電話も置いて、どこかへ行ってしまったの。そこら中探し回ったんだけど、どこにも見当たらなくてっ」


 聞いた瞬間、息が詰まるような感覚がした。何がどうなっているのか、全然わからない。ただ、普通じゃない状況だということだけはわかる。


「……私も一緒に探します!」


 自分でも驚くくらい早く声が出ていた。

 お母さんとLINEを交換し、急いで周辺を見渡す。

 まだ状況は飲み込めないけど、考えるよりも動かなくちゃ——

 鳴海君、どこにいるの——心の中で強く願いながら、私は走り出した。



「——野々原さん!」


 駅前のロータリーで、息を切らせた鳴海君のお母さんと合流した。


「鳴海君はいましたかっ?」


 訊くと、お母さんは首を振り、苦しげな表情を浮かべながら答えた。


「いなかった。だからさっき交番で事情を話してきたわ」


 交番……。それほどまでに大ごとなのだろうか。胸にざわりとした不安は広がるけど、「鳴海君、家に戻ってたりしませんか?」と思わず口にすると、お母さんは少し肩を震わせながら、毅然きぜんと首を振った。


「それはない。家には置き手紙があるから、もし純が家に戻ったら、絶対に連絡を入れるはずだから……」


 言うけど、お母さんはまだ、そわそわしている。


「とりあえず、少し落ち着きましょう」


 思い切って提案をしてみたが、そんな言葉は強い口調で一蹴された。


「そんな悠長なことを言ってる時間なんてないわ! もし純に、もしものことが何かあったら……」


 お母さんは何か、最悪の事態を想定しているのか、瞳が一瞬濡れたように見えた。


「野々原さん?」


 不意に名前を呼ばれ、我に返る。お母さんが真剣な顔でこちらを見ている。


「最近、純に何か変わったことはなかった?」


 ……変わったこと。


 記憶をたどるように、あのことが思い浮かんできたところで、再び質問が飛んできた。


「どこか一緒に行ったとか?」

「水族館に行きました!」


 口にした途端、お母さんの顔が強張こわばる。そして、続けざまに思い出したことを伝えた。


「あと……そのとき、自転車と接触しそうになった子供を助けて、すぐに頭を抱えて痛たがってました」


 お母さんの動揺は隠しきれない。手を口元に当てて、慌てているのか視線を彷徨わせている。

 そのときだ。


「そう……ありがとう」


 小さく呟いたと思ったら、お母さんはタクシーを捕まえようと急に手を上げた。


「えっ⁈ どこ行くんですかっ?」


 問いかけると、お母さんはタクシーのドアに手をかけたまま振り返り、息を整えるように小さく吸い込んでから「きっと純は、あそこにいる」と言って中に乗り込んだ。


 ——もう、理由も説明も何もできなかった。


 気がつくと、私はその言葉を聞いた瞬間に「待ってください! 私も一緒に連れてってください!」と言ってタクシーに乗り込んでいた。



 車内では、ずいぶんと沈黙が続いていた。


 半ば強引に来てしまったけど……

 大丈夫だったのかな……。


 隣に座るお母さんの様子をちらりと伺いながら、私は内心でため息をついていた。

 もし、鳴海君と会えたとしても、私がいたら気まずいのでは? そう、いまさらながらだけど思い始めていた。

 鳴海君のお母さんが口を開いた。


「来てくれてありがとう。きっと、純に会ったとしても、私だけじゃどうすることもできない気がするから」


 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。お母さんの表情にも、先ほどまでの焦燥感が薄れたように見える。

 少し経ったところで、何かを思い出したようにお母さんが顔を上げる。


「あら、ごめんなさい。そういえば、お腹空いてるんじゃない?」


 そう言いながらバッグに手を伸ばし、取り出したのは袋に入ったパンだった。


「これ、よかったら食べて」


 丁寧に差し出されるその手に、思わず受け取ってしまう。


「ありがとうございます。いただきますっ」


 ——お腹が空いていたことを、すっかり忘れていた。


 ひと口かじると、クリームパンの甘い香りがふんわりと鼻をくすぐった。食べながら、思わずお母さんを見上げてしまう。


「これ、このパンって……?」

「そう。純が買ってきてくれたの」


 お母さんの優しそうな顔が見えて、鳴海君のおばあちゃんに会ったときと同じことを思った。微笑みが、そっくりだ。


「あの子がバイトをするなんてね……」


 今度は、ちょっとだけ感慨深げに目を細めているようにも映る。


「……野々原さん。きっとあなたのおかげね」

「私のおかげ……ですか?」


 不意の言葉に戸惑いながら訊ねると、お母さんは静かに微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。


「あ、それとこれも。よかったら飲んで」


 そう言って渡されたのは、紙パックの牛乳だった。

 手にした瞬間に、滝本君のおばあちゃんの顔が思い浮かんだ。


 あの人は……どれだけ鳴海君を大きくしたいのだろう。


 そんなことを思いつつ、私は牛乳を飲んだ。


 ……それと、この車は一体、どこへ向かっているのだろうか。

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