第99話 傷だらけの兵士.2

 俺は気づいてしまう。目の前の大人を、ないがしろにした目で見ていることを。見下すような、冷たい自分の視線が嫌になる。

 抑え込もうとした感情が、一気にこぼれ出た。


「どうして教えてくれなかったの? ……何で黙ってたっ!」


 母さんの顔が一瞬、苦しそうに歪んで、それだけで、俺が何を訊きたいのかを理解していることがわかった。

 でも、母さんが次に絞り出したものは、結局、過去の延長線上にある言葉と同じだ。


「何があったの?」


 その痛々しく映る、自分の感情を無理矢理にでも落ち着かせようとする様子は、俺の苛立ちに油を注ぐだけだった。


「純、少し落ち着いて。ちょっと、一つずつ整理して、何があったか教えて」


 母さんはなだめるように言う。自分を取り繕うかのように、慌てた様子で続けた。


「ほら、お腹空いたでしょ? ひとまず、何か一緒に食べよ?」


 椅子を引きながら、震える声で言う。


「あ、そうだ、のども乾いたんじゃない? 何、飲む? お茶いれよっか?」


 そのはぐらかすような態度が、心の底にある絶望を広げていく。この人は、結局、何もわかっていない……。

 どいつもこいつも、皆んな同じだ。

 バカにして……。俺の気持ちなんて、何にもわかっちゃいない。

 やっと今、ずっと抱いていた自分の中にあるモヤモヤの根源に触れたのだと思った。


 俺は何か——誰かをずっと待っているような気がしていた。

 でも、それはわからない。


 ……俺は何か——大切な何かを忘れている。


 俺は——

 記憶をなくしてたんだ。


 視界が滲んで、喉が震える。言葉を選びながら、一つ一つ押しころすようにして声に変えていった。


「母さん……。わかったよ。もういいよ」


 きっと、これ以上、この人に何を言ったところで無駄だから。



 鳴海君のおばあちゃんの家までは、この道を真っ直ぐ歩いて行けばいい。

 手提げ袋の中のカーディガンの重さを感じながら私は思い返す。

 家族に見つからないように洗濯して、こっそりと乾かすのは至難のわざだった。柔軟剤だって自分のお気に入りのものを使用した。

 鳴海君はそんなことを気にしない人だとはわかっていても、何となく気になってしまう。


 鳴海君、いるかな……。


 ありがとう、と笑った顔を思い浮かべると、一瞬だけ足取りが軽くなった気がした。



 目の前に目的の建物が見えた、その瞬間だった。視界の端に見覚えのある女の人が映った。


 あれ……鳴海君のお母さん?


 驚いて近づいてみると、その様子が尋常ではないことはすぐにわかった。髪は乱れていて、肩で息をしながら、まるで何かを探しているようだった。

 辺りををキョロキョロと見回して、その必死な様子に、私の心は落ち着かなくなる。もしかして——


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