第101話 あの日のこと

「どこか一緒に行ったとか?」

「水族館に行きました!」


 私が口にした途端、お母さんの顔が強張こわばる。そして、続けざまに思い出したことを私が言うと、

「あと……そのとき、自転車と接触しそうになった子供を助けて、すぐに頭を抱えて痛たがってました」

 お母さんの動揺は隠しきれない。

 手を口元に当てて、慌てたように視線を彷徨わせている。

 そのときだ。


「そう……ありがとう」


 と、お母さんは呟くように言葉を残したと思ったら、急にタクシーを捕まえようと手を上げている。


「えっ⁈ どこ行くんですかっ?」


 問いかけると、お母さんはタクシーのドアに手をかけたまま振り返り、息を整えるように小さく吸い込んでから「きっと純は、あそこにいる」と言って中に乗り込んだ。


 ——もう、理由も説明も何もできなかった。


 気がつくと、私はその言葉を聞いた瞬間に、「待ってください! 私も一緒に連れてってください!」と言ってタクシーに乗り込んでいた。



 車内では、ずいぶんと沈黙が続いていた。


 半ば強引に来てしまったけど……

 大丈夫だったのかな……。


 隣に座るお母さんの様子をちらりと伺いながら、私は内心でため息をついていた。

 もし、鳴海君と会えたとしても、私がいたら気まずいのでは? そう、いまさらながらだけど思い始めていた。

 でも、ふと鳴海君のお母さんが口を開いた。


「来てくれてありがとう。きっと、純に会ったとしても、私だけじゃどうすることもできない気がするから」


 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。お母さんの表情にも、先ほどまでの焦燥感が薄れたように見える。

 少し経ったところで、何かを思い出したようにお母さんが顔を上げる。


「あら、ごめんなさい。そういえば、お腹空いてるんじゃない?」


 そう言いながらバッグに手を伸ばし、取り出したのは袋に入ったパンだった。


「これ、よかったら食べて」


 丁寧に差し出されるその手に、思わず受け取ってしまう。


「ありがとうございます。いただきますっ」


 ——お腹が空いていたことを、すっかり忘れていた。


 ひと口かじると、クリームパンの甘い香りがふんわりと鼻をくすぐった。食べながら、思わずお母さんを見上げてしまう。


「これ、このパンって……?」

「そう。純が買ってきてくれたの」


 お母さんの優しそうな顔が見えて、鳴海君のおばあちゃんに会ったときと同じことを思った。微笑みが、そっくりだ。


「あの子がバイトをするなんてね……」


 今度は、ちょっとだけ感慨深げに目を細めているようにも映る。


「……一之瀬さん。きっとあなたのおかげね」

「私のおかげ……ですか?」


 不意の言葉に戸惑いながら訊ねると、お母さんは静かに微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。


「あ、それとこれも。よかったら飲んで」


 そう言って渡されたのは、紙パックの牛乳だった。

 手にした瞬間に、滝本君のおばあちゃんの顔が思い浮かんだ。


 あのひとは……どれだけ鳴海君を大きくしたいのだろう。


 そんなことを思いつつ、私は牛乳を飲んだ。


 ……それと、この車は一体、どこへ向かっているのだろうか。


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