第98話 傷だらけの兵士.1
*
駅のホームに立ち、スマホを見つめていると、ふう、と息が小さくもれた。ゆるい風が髪を揺らして、どこか遠くから電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえてくる。
……鳴海君のバイトが休みということは、さっき友達が言っていた。
おばあちゃんの家には、中学の頃に一度だけ行ったことがある。
贈る誕生日プレゼントを二人で考えて、『一緒に選んでほしい』と頼まれたため鳴海君とお店まで行った。売り場で真剣な顔をして色や素材を悩んでいた姿が、今でも懐かしく思う。
二人で選んだのは淡いベージュの手袋だった。
そのあと家へと向かい、おばあちゃんの物腰柔らかい微笑みが鳴海君によく似ていると思った。
細い指で手袋を撫でながら、優しく「ありがとうね」と言った声が耳に残っている。
元気にしているかな——。ふと、胸の中でそう呟いていた。
手袋の時期も、そろそろ近いな、とも思う。
ウィンターカップの開催は、十二月二十三日からだ。
それともう一つ。
……今も鳴海君。好きでいてくれてるといいな。
私は、ついコンビニで買ってしまったお菓子を思い浮かべながら、にやにやとしてしまう。
今日は——十一月十一日。
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家への道を急ぐ足が、まるで焦りを引きずっているようだった。絡まった感情を落ち着かせようとすればするほど、気持ちがもつれて、余計にちぐはぐしていく。胸の奥にわだかまる不安が、重く、冷たい。
——記憶を失っている? 本当に、俺が?
まだ、信じられない。
まだ、人違いであってほしい、と思っている自分もいる。
考えれば考えるほど、心の中に黒い靄が広がる。
滝本に十二番。一之瀬に斎名と鈴木も。もしかして、山田もか?
次々と浮かぶ名前と顔が、どこか遠くで手招きしているようで、近づこうとするたびに霧の中へ消えていく。
ボールをつく音が不気味に迫り、頭の中でぐるぐる回って、足元が揺れると吐き気が込み上げてきた。
——皆んな、俺を何だと思っているんだ……。
ドアノブを握る手が震えていた。迷いを振り払うように、勢いよくドアを開ける。
玄関には、見慣れた靴。
母さんの靴だ。
その小さな現実だけが、唯一の確かなもののように感じられて思わず息をつく。
扉を開けると、すぐに声が飛び込んできた。
「おかえり、純。元気にしてた?」
その明るい声が、今の俺には耳障りだった。口元には笑みが浮かんでいたはずの母さんが、俺の顔を見た瞬間、表情を凍りつかせている。まるで、戦場から傷だらけで帰ってきた兵士を見るみたいに。
「どうしたのっ? 純っ! 何があったの⁈」
その声が胸に突き刺さる。
目の前にいるのは、離れて暮らすようになった以前の、何をするにも『大丈夫?』『平気だった?』『何もなかった?』と、必要以上に繰り返す過保護な母親の姿だった。
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