第95話 黒い猫⋯

「勉強、頑張ってね——」


 友希さんの温かい笑顔に見守られながら、会計を済ませて店を後にした。

 駅に向かいながら、適当に選んで買った惣菜パンを袋から手に取って食べる。クリームパンも買った。母さんの好きなパンだ。


 ——親子水入らず。


 ばーちゃんの言葉が、ふと頭に浮かんだ。家で二人きり。いつぶりだろう?

 そう考えながら、どこかで少し不安がっている自分がいることに気づき、たまらずクリームパンをひと口、頬張ってみた。

 すると甘さが強すぎるわけでも、控えめすぎるわけでもない。ただ、何とも言えない味が口の中に広がる。

 好きでも嫌いでもない、どこか中途半端な風味が、今の自分にぴったりだと思った。

 心の中に、何かを期待しているような、でもその期待が自分でもうまく掴めないまま、ただ空回りしているような……

 けれど、もう一度ひと口食べてみると、少しだけその感覚が収まるような気もする。どこか心の奥で、少しだけ甘さが溶けたような気がした。

 何となく先に進みながら俺は、そんなどっちつかずな自分に辟易へきえきとするのだった。



 ……今日はセーター一枚で十分だな。


 中目黒駅の改札を出ると、じんわりと汗がにじんで、ブレザーを脱いだ。

 急に冷え込んだかと思えば、この汗ばむほどの暖かさ——

 そんな寒暖差に、一之瀬の姿が思い浮かんだ。


 ばたばたとせわしなく、笑ったかと思えば、次の瞬間には泣いている。ころころと変わる表情が、気まぐれな季節のように思えた。


 ……そう言えば、今日は顔を合わせなかったな。


 そんなこと考えているとき、俺の足が止まる。


「……」


 目の前には黒い猫がいる。じっとした視線が、無言で何かを問いかけてくる。まるで見透かされているような、そんな気持ち悪さがあった。

 気にせず歩き出そうとすると、小さな足音がついてくる。振り返ると、さっきの猫だ。……何だ、コイツは?


「……何だよ」


 ぼそりとつぶやくと、猫の視線で何となく察しがついた。おそらく狙いは俺が手にしている袋の中だ。

 仕方なく膝を曲げ、ため息をひとつ。そして袋から手に取ったパンを、ほんの少しだけちぎって食べさせた。

 すると、あっという間に飲み込んだ猫は、何事もなかったかのように、路地の奥へすっと姿を消した。


 何だ?

 この気持ちは。


 何となく、残された自分だけが、置いてきぼりになったような気分になった。

 そう物思いに膝を伸ばしながら立ち上がる。そのときだった。


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