第94話 カラス⋯

「いらっしゃいませ——」


 パン屋の扉を開けると、チリンと軽い音が響き、友希さんがにこやかに迎えてくれた。店内に漂う、焼きたてのパンの香りがふんわりと広がる。


「あれ? 純君、今日は早いんだね?」

「昼ごはん、買いに来ました」



 授業が終わりクラスメイトと軽く雑談を交わしながら、ふと時計に目をやると、そろそろ帰る時間だと気づいて、そのまま教室を後にした。

 短縮授業は、あっという間だった。

 そのせいか、今日は鳴海君を見かけなかった。


 今日はバイトだろうか。


 また帰りに、ばったりと一緒にならないかな? そんな思いにふけながら靴を履き替えていると、

「桃ー、お疲れさまー」

 また沙織んとばったり会った。

 声をかけられ、軽く手を振りながら、「お疲れさまー」と返すと、沙織んに訊かれる。

「今日、帰り何か用事あるの?」


 おそらく、練習をしないか心配しているんだろうと、私は内心で思う。


「一つ用事あるけど、そしたらすぐ帰るよ」


 そう言うと、沙織んはじっと見つめてきて、『絶対、練習するなよ』と、目でプレッシャーをかけてきた。


「ほんと、大した用事じゃないから、大丈夫だってっ」


 軽笑いで返すと、沙織んは少し安心したように息をつきながら、「頼むぞ、桃まで怪我されたら困っちゃうから」と言う。


「ありがと、今日はしっかり休むから」


 両手でグーを作り、私がしっかりと宣言すると、沙織んは、「おう、頼むぞ!」と頷いて、お互いに笑顔を交わした。



 校門を出て、沙織んと別れる。その後ろ姿を見送りながら、安堵が胸に広がった。

 本人は最初さえ嫌がってはいたけど、沙織んは、厳しさと優しさを絶妙に併せ持つ、頼りになるキャプテンだ。

 私の心は清々しい気分だった。

 空はどんよりと冴えない灰色で、どこか落ち着かないけれど、今日は平穏な一日だった……の、はずだった。

 なのにどうしてだろう、まさかカラスに襲われるなんて。


 わずかに「カァ」という声が耳に届いて、何気なく道路の路肩を見ると、黒いカラスが一羽、じっとこちらを見ていた。

 車の通りが激しい場所なのに、路肩にいるなんて珍しい。なんだか嫌な予感がした。

 次の瞬間だった。バサバサッという羽音と同時に、頭に衝撃が走る。


「えっ?」と思う間もなく、もう一度、ガツンと何かが頭を蹴った。反射的に顔を覆う。今の……カラス? まさか。

 驚いて見上げると、電線の上に二羽のカラスが並び、こちらを見下ろしている。

 心臓がバクバクして、恐怖と混乱で足がすくんで、——え、何で? と思った。私は何もしていない。カラスに恨まれるようなこと、何一つしていない。

 仕方なく、もう嫌ーー、と心の中で叫びながら走り出す。鞄を抱えて全力で逃げた。

 安全な場所まで走って、ようやく立ち止まってからも心臓に静まる気配はない。


 ——巣が近くにあったのかもしれない。


 でも、毎日通る道なのに……どうして今日だけこんなことになったのだろう。

 辺りを見回しても、いつものように並んだ木と電線、そして憎らしいカラスだけ。視線は冷たく、理由なんて分かるはずもない。


「今日はもう、真っ直ぐ帰ろ……」


 小さなため息とともに私は足早に歩き出した。

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