第92話 お試しなるもの⋯.2

「ただいま」


 玄関の扉を閉め、靴を脱ぐと、ダイニングキッチンからテレビの音と湯気の立つお茶の香りが漂ってくる。テーブルに座っていたばーちゃんが顔を上げた。


「おかえり。あれ、今日は帰り早いんだねえ?」


 ばーちゃんの声には、いつものゆったりした調子と、少しばかりの驚きが混じっていた。


「今日、明日と学校行事で短縮授業だから」


 そう答えながら、リビングを横切り、自分の部屋へと向かう。そして部屋の扉を開けながら、ふと伝えることを思い出した。


「あ、それと、もうすぐテスト期間で、それが終わるまではバイトは休みだから」

「それは良かった。ちょうど明日、純君のお母さんが来るって言ってたから」


 ばーちゃんは穏やかな口調で言いながら、湯飲みを手に取る。


「そうなんだ」


 少し驚いて振り返ると、ばーちゃんはにこにこしながら続けた。


「私は友達と温泉旅行でいないから、たまには親子水入らずで過ごせるねえ」



 夜ご飯を食べていると、テレビから紅葉の旅番組が流れてきた。湯気が立つ味噌汁をすすりながら、向かいに座るお母さんが口を開く。


「桃子がウィンターカップ行けたら、お父さんと温泉旅行でも行こうかしら?」


 思わず私の箸が止まる。


「……なんで旅行に、ウィンターカップの勝ち負けが関係あるの? 意味わかんないけど」

「だって、その方が応援しがいがあるじゃない? 頑張ってよ」


 訊いて損した。——自分のためじゃんか、それ。


百合子ゆりこも心配してたわよ? 怪我には気をつけろって」


 『怪我』——その単語が胸にのしかかって、肩が重く沈む。今、一番聞きたくないワードだ……。

 無言でご飯を口に運ぶけど、頭の中には、結衣の転倒の場面が何度も繰り返し再生される。


「オーバーワーク、大丈夫なの?」


 その言葉が、さらに私の肩を突き落とした。お母さんがオーバーワークとか言うなんて——絶対、お姉ちゃんの受け売りだ。


「……大丈夫。明日は練習休みだし」


 何ともないフリをして口ずさんだときだった。スマホが鳴って、すぐに画面を確認した。


「ちょっと、食事中にスマホはやめなさいって言ってるでしょ?」

「ごめん、今だけ。部活の大事なメールだからっ」

「部活なら仕方ないけど」

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