第91話 お試しなるもの⋯.1
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「は?」
三限目の授業が終わったときだった。思わず口から出た言葉に、滝本は笑っている。
「あー、俺もう帰るわ」
鞄を手にした滝本は、いつも通りの軽い調子で言う。元気そうに見えるその顔に、つい聞き返してしまう。
「何かあったのか?」
「あー、昨日、急に寒くなっただろ? たぶんそれだな……鼻がむずむずするから帰るわ。他のやつにうつしたらダメだしな」
「……そういうもんか」
気の抜けた返事に、滝本は片方の口角をわずかに上げ、軽く笑った。
「それに、今日も明日も短縮授業だろ? 今、帰っても大して変わんねーだろ?」
そう言うと、滝本は鞄を肩に掛け、さっさと教室を出て行った。
……風邪、か。
心なしか悪寒がするのは、気のせいか?
*
思いのほか早くやってきた。お試しなるものは。
それがどんな形で訪れるのか、ぼんやり考えていたけれど、まさかこんなに急だなんて……。
「一之瀬先輩、どうですか?」
部活の練習の休憩中、キラリ君が息を切らしながらたずねてきた。今日は隣のコートで男バスが練習していた。
「ボールキャッチからのリズムが悪いかな。打つまでの時間、ほんのコンマ五秒遅いんだよね。何でもない動作だけど、それを意識するだけでだいぶ変わるよ。そうすればタフショットも減ると思うけど」
鳴海君に教わったことを思い出しながら伝えると、キラリ君は真剣な顔でうなずいていた。
「なるほど、基本が大事ってことですね……ありがとうございますっ。意識してやってみます!」
キラリ君は元気よく個人練習に戻っていく。その姿を見送りながら、ふと自分たちのコートに目を戻した。
結衣が、いつになく熱心にドリブルの練習をしていた。本人が言っていた通り、動きはキレがあって、調子が良いのは誰の目にも明らかだった。
だけど——
結衣がドリブルからシュートモーションに入ったその瞬間、周囲の空気が凍りついた。
どたん、と乾いた音が体育館に響き、見ると結衣は足を滑らせて床に倒れ込んでいた。
「結衣っ!」
周りの皆んなも騒然とする中、足が反射的に動く。けれど、私よりも先に、鋭い声が響いた。
「大丈夫か⁈」
糸田君だった。結衣のもとへ駆け寄ったその焦った表情に、周囲はただ事ではないと悟る。
私も急いで側に向かうと、結衣は顔をゆがめながら、私に笑顔を向ける。
「ごめん、桃。転んだときに足首、やっちゃったみたい」
心配させないように言っているその笑顔が、余計に痛々しかった。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ! 早く処置して病院に行くぞ」
糸田君が強引なほどの真剣さで、結衣の肩を支えながら立たせる。その背中に、どうしようもない不安が広がった。
体育館の扉が閉まる音が、いつもより重く感じた瞬間だった。
——『お試し』なんて、簡単な言葉で片付けられない現実が、今ここにあるのかもしれない。
私は、ただ——軽傷であることだけを祈った。
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