第91話 お試しなるもの⋯.1

「は?」


 三限目の授業が終わったときだった。思わず口から出た言葉に、滝本は笑っている。


「あー、俺もう帰るわ」


 鞄を手にした滝本は、いつも通りの軽い調子で言う。元気そうに見えるその顔に、つい聞き返してしまう。


「何かあったのか?」

「あー、昨日、急に寒くなっただろ? たぶんそれだな……鼻がむずむずするから帰るわ。他のやつにうつしたらダメだしな」

「……そういうもんか」


 気の抜けた返事に、滝本は片方の口角をわずかに上げ、軽く笑った。


「それに、今日も明日も短縮授業だろ? 今、帰っても大して変わんねーだろ?」


 そう言うと、滝本は鞄を肩に掛け、さっさと教室を出て行った。


 ……風邪、か。


 心なしか悪寒がするのは、気のせいか?



 思いのほか早くやってきた。お試しなるものは。


 それがどんな形で訪れるのか、ぼんやり考えていたけれど、まさかこんなに急だなんて……。


「一之瀬先輩、どうですか?」


 部活の練習の休憩中、キラリ君が息を切らしながらたずねてきた。今日は隣のコートで男バスが練習していた。


「ボールキャッチからのリズムが悪いかな。打つまでの時間、ほんのコンマ五秒遅いんだよね。何でもない動作だけど、それを意識するだけでだいぶ変わるよ。そうすればタフショットも減ると思うけど」


 鳴海君に教わったことを思い出しながら伝えると、キラリ君は真剣な顔でうなずいていた。


「なるほど、基本が大事ってことですね……ありがとうございますっ。意識してやってみます!」


 キラリ君は元気よく個人練習に戻っていく。その姿を見送りながら、ふと自分たちのコートに目を戻した。

 結衣が、いつになく熱心にドリブルの練習をしていた。本人が言っていた通り、動きはキレがあって、調子が良いのは誰の目にも明らかだった。


 だけど——


 結衣がドリブルからシュートモーションに入ったその瞬間、周囲の空気が凍りついた。

 どたん、と乾いた音が体育館に響き、見ると結衣は足を滑らせて床に倒れ込んでいた。


「結衣っ!」


 周りの皆んなも騒然とする中、足が反射的に動く。けれど、私よりも先に、鋭い声が響いた。


「大丈夫か⁈」


 糸田君だった。結衣のもとへ駆け寄ったその焦った表情に、周囲はただ事ではないと悟る。

 私も急いで側に向かうと、結衣は顔をゆがめながら、私に笑顔を向ける。


「ごめん、桃。転んだときに足首、やっちゃったみたい」


 心配させないように言っているその笑顔が、余計に痛々しかった。


「そんなこと言ってる場合じゃないだろ! 早く処置して病院に行くぞ」


 糸田君が強引なほどの真剣さで、結衣の肩を支えながら立たせる。その背中に、どうしようもない不安が広がった。

 体育館の扉が閉まる音が、いつもより重く感じた瞬間だった。


 ——『お試し』なんて、簡単な言葉で片付けられない現実が、今ここにあるのかもしれない。


 私は、ただ——軽傷であることだけを祈った。

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