第89話 鳴海君.1

 俺は何も言わず、じっと見つめ涙が止まるのを、ただ黙って見つめる。

 空気が冷たくて、頬をかすめるたびに、じんわり心に染み込んでくるようだった。自分の中の欠けた何かが、ふいに揺らいだ気がした。



 改札を出ると、すぐに姿が目に入った。


 ——鳴海君?


 思わず心の中で呟いて、足が止まる。

 同じ電車に乗っていたのだと知っただけで、何でか胸の中に嬉しさが広がっていく。

 鳴海君はじっとしたまま立っている。


 何をしているのだろう?


 視線の先を追うと、小さな男の子が転んだまま、膝を擦りながら小さく泣いていた。


 助けなきゃ——そう思って足が一歩前に出かけたけれど、男の子は小さな手を地面を押さえて、ゆっくりと立ち上がった。夕暮れの薄い光が、涙の筋を頬に淡く照らしている。


 息の詰まる光景だった。


 男の子は唇をぎゅっと噛んで涙をこらえている。その表情に私の心は、きゅっと締めつけられた。

 そのあと膝を曲げた鳴海君は、ふっと笑って男の子の頭を優しく撫でている。男の子の顔に少しだけ笑みが戻った瞬間だった。その横顔は誇らしげにも見えた。


 何だろ? 何か言われている。

 身長、大きいね、みたいな感じかな。


 そう思ったときだ。

 ——え⁈ 鳴海君は男の子をひょいっと肩に乗せた。

 少しだけ面倒くさそうな顔をしているけど。私の目には、その口元はどこか緩んでいるように映った。

 バランスを取るために両手はしっかりと足に添えられて、男の子は嬉しそうに小さな手を広げて、まるで空を飛ぶみたいに揺れている。


 どんな景色なんだろう。鳴海君の見ている世界は、一体どんなふうに映っているのだろう。


 男の子が、ちょっぴりうらやましかった。

 時折ちらりと鳴海君が上目遣うわめづかいいで様子を伺っているその仕草が、どうしょうもなく愛おしく思う。

 そして鳴海君が男の子のお母さんを呼び止めたときだ。

 その声は賑やかな駅前の雑踏に紛れて、あっさりと消えてしまう。お母さんは少し離れているだけだけど、全然気づいていない。鳴海君は困ったように眉を下げて、男の子を肩に乗せたままだ。


 その様子に……


 私の足は反射的に駆け出していた。


「——すみませんっ!」


 気づけば、私の声は冷たい風に乗って、その場の空気を破って響いていた。

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