第31話
どうすればいいのかわからず、ただ立ちすくんでいると、女の人はぱっと視線を元に戻してから話し始めた。
「その執着。あなたが抱えているその執着を手放すか、どうするか……それが今後の大きな分岐点になりそうね。どちらを選択するにせよ、あなたの自由だけど」
執着……?
「まあ、お試しみたいなものかな」
何のことだろう。聞いて、ますますわからなくなった。だけど、何か思うところもある。
「……ありがとう、ございます」
とりあえず口にした言葉に、女の人は口元を緩めた。
「まあ、どっちも良い子だね。私は好きよ、応援してるわ」
そう言うと店の中に入った女の人は、すぐに紙パックを手に戻ってきた。
「えっ、牛乳?」
——何で?
「サービスよ。またよろしくね」
牛乳の重みが、手のひらにじんわりと伝わる。
駅へ向かう道すがら、考える。
——お店の人、だよね?
……そうすると、たぶん滝本君の。
前に、結衣が話していた。占いができるおばあちゃんがいるって……
「へびつかい座、か……」
十二星座は射手座だけどな。
でも、何かが引っかかる。
——というか、へびつかい座なんてあるのっ?
私はまだ明るさを保った夕方の空を見上げながら、その答えを探すように歩き続けた。
+
中目黒駅に着いて改札を抜けた。空はまだ夕方になりたての明るさを残している。けれど、さっきまでの柔らかな光はいつの間にか雲に覆われ、急に冷え込んだ空気が肌に刺さる。
人の流れに身を任せながら吐いた息は、ふわりと白く宙に浮かんで、すぐに消えた。季節が一気に進んだようだった。夏の記憶が遠く霞んでいく。
……冬は寒くて苦手だ。
どうしても、思い出すのは生まれ育った鎌倉の夏の風景だった。海辺に立つ自分、照りつける太陽、焼けたアスファルトの匂い。潮風に混ざる遠くの笑い声と波の音。どこまでも青い空が広がり、何もかもが光に包まれていた。
滝本のばあちゃんの言葉が頭の中に浮かんで、また息が漏れる。
……俺の心には、ほんとに大きな穴が空いてるのかもしれない。
歩き出すと、目の前で小さな子供が転んだ。男の子はゆっくりと膝を擦りながら、控えめに泣き始めた。
ぱっと見て、大きな怪我はなさそうだ。母親らしき人は、ちょうど俺の背中に隠れてしまって、こっちの様子にはまだ気づいていない。
子供と目が合う。
俺は何も言わず、じっと見つめ涙が止まるのを、ただ黙って見つめる。
空気が冷たくて頬をかすめるたびに、自分の中の欠けた何かが、ふいに揺らいだ気がした。
*
改札を出ると、すぐに姿が目に入った。
——鳴海君?
思わず心の中で呟いて、足が止まる。
同じ電車に乗っていたのだと知っただけで、何でか嬉しかった。
鳴海君はじっとしたまま立っている。
何をしているのだろう?
視線の先を追うと、小さな男の子が転んだまま、膝を擦りながら小さく泣いていた。
助けなきゃ——そう思って足が一歩前に出かけたけれど、男の子は小さな手を地面を押さえて、ゆっくりと立ち上がった。夕暮れの薄い光が、涙の筋を頬に淡く照らしている。
息の詰まる光景だった。
唇をぎゅっと噛んで涙をこらえる男の子。その表情に、気持ちが締めつけられた。
そのあと膝を曲げた鳴海君は、ふっと笑って男の子の頭を優しく撫でている。男の子の顔に笑みが戻った瞬間だった。その横顔は誇らしげにも見えた。
何だろ? 何か言われている。
身長、大きいね、みたいな感じかな。
そう思ったときだ。
——え⁈ 鳴海君は男の子をひょいっと肩に乗せた。
少しだけ面倒くさそうな顔をしているけど。私の目には、その口元はちょっとだけ緩んでいるように映った。
バランスを取るために両手はしっかりと足に添えられ、嬉しそうに小さな手を広げた男の子は、まるで空を飛ぶみたいに揺れている。
どんな景色なんだろう。鳴海君の見ている世界は、一体どんなふうに映っているのだろう。
男の子が、ちょっぴりうらやましかった。
時折ちらりと鳴海君が
そして鳴海君が男の子のお母さんを呼び止めたときだ。
その声は賑やかな駅前の雑踏に紛れて、あっさりと消えてしまう。お母さんは少し離れているだけだけど、全然気づいていない。鳴海君は困ったように眉を下げて、男の子を肩に乗せたままだ。
その様子に……
私の足は反射的に駆け出していた。
「——すみませんっ!」
気づけば、私の声は冷たい風に乗って、その場の空気を破って響いていた。
親子とは無事に別れてから、二人で川沿いの道を歩いた。並んだ足音は小さく弾んで聞こえた。
「俺も、あの子くらいの歳のとき、よく嘘泣きしててさ」
「そっか」
鳴海君が自分のことを話すなんて珍しい。思わず顔を向けてしまった。
「でも、父さんはいつも助けてくれなくてさ……ああ、別に厳しい父親だったわけじゃないんだけどね」
「そうなんだ……」
「まあ、小学三年のころには死んじゃったから、大した思い出もないんだけど」
鳴海君のうっすらと微笑んだその笑顔が、どこか遠くの記憶に沈んでいくみたいに
中学生のとき、初めて目の前に現れた鳴海君。その姿に、何か寂しさの
私は感情を取り
「男の子と女の子の違いとかあるのかな。うちは、お姉ちゃんと私だけだけど、お父さんは娘に甘々だから」
「……へー」
「特に、お姉ちゃんにはひどいっ。何でもいうこときいちゃって。お母さんはノリだけよくて、何考えてるのかわからないし」
「あ、それはうちも同じかも、たぶん野々原の家より破天荒だけどね」
ふっと鳴海君が漏らした白い息。頬がわずかに緩み、こっちを向いた瞳に、さっきまでの曇りが晴れたように見えた。肩の力も抜けて、まるで長い間背負っていた重たい荷物をやっと下ろしたみたいだった。
その瞬間、名案が浮かんだ。
「あっ、そうだ!」
勢いよく声を上げ、鞄を探る。
「何?」
鳴海君は不思議そうに首を傾げている。
「鳴海君っ、牛乳飲む?」
私は取り出したパックを、誇らしげに差し出した。
「え、何でまた牛乳?」
「さっき、もらったんだよね」
理由をはぐらかしながら、私は得意げに言う。
「もらったって……何で?」
もう、鳴海君の口元が笑いをこらえきれなそうだ。
「だって、鳴海君、まだまだ大きくなりたいでしょ?」
少しふざけた感じで言うと、鳴海君は視線を逸らしながら、ため息交じりに笑った。
「俺……これ以上大きくなったら、日本じゃもう住めないな」
そう言った瞬間、ぷっと吹き出す鳴海君の笑い声が、ひんやりとした空気の中に弾けた。
引きずられるように、私も思わず笑ってしまう。
笑いながら歩く私たちの間には、ささやかな、けれどたしかな、温かい空気が流れていた。
その温もりをさらうように、強めの風がひんやりと頬を撫でる。見上げた空には、灰色の雲が広がり、景色が
その瞬間、くしゃみがひとつ。乾いた音が冷たい空気に消えた。袖口で鼻をこすりながら、つい小さく私は笑ってしまう。
「ごめん、くしゃみでちゃった」
「今日、急に寒くなったからな。大丈夫?」
鳴海君の声が優しい。冷たい風にそっと寄り添うようだった。
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