第88話 へびつかい座の女

 どうすればいいのかわからず、ただ立ちすくんでいると、女の人はぱっと視線を元に戻してから話し始めた。


「その執着。あなたが抱えているその執着を手放すか、どうするか……それが今後の大きな分岐点になりそうね。どちらを選択するにせよ、あなたの自由だけど」


 執着……?


「まあ、お試しみたいなものかな」


 何のことだろう。聞いて、ますますわからなくなった。だけど、胸の奥が小さくうずいた。


「……ありがとう、ございます」


 とりあえずそう口にすると、女の人は微笑んでいた。


「まあ、どっちも良い子だね。私は好きよ、応援してるわ」


 そう言うと店の中に入った女の人は、すぐに紙パックを手に戻ってきた。


「えっ、牛乳?」


 ——何で?


「サービスよ。またよろしくね」


 牛乳の重みが、手のひらにじんわりと伝わる。



 駅へ向かう道すがら、考える。


 ——お店の人、だよね?

 ……そうすると、たぶん滝本君のおばあちゃん。

 前に、結衣がいっていた。占いができるおばあちゃんがいるって……


「へびつかい座、か……」


 十二星座は射手座だけどな。

 でも、何かが引っかかる。


 ——というか、へびつかい座なんてあるのっ?


 私はまだ明るさを保った夕方の空を見上げながら、その答えを探すように歩き続けた。



 中目黒駅に着いた。改札を抜けると、空はまだ夕方になりたての明るさを残している。けれど、さっきまでの柔らかな光はいつの間にか雲に覆われ、急に冷え込んだ空気が肌に刺さる。

 人の流れに身を任せながら、ふっと息を吐くと、白い息がふわりと宙に浮かび、すぐに消えた。さっきまで肌寒い程度だったのに、まるで季節が一気に進んだみたいで、夏の記憶が遠く霞んでいくようだった。


 ……冬は寒くて苦手だ。


 どうしても、思い出すのは生まれ育った鎌倉の夏の風景だった。海辺に立つ自分、照りつける太陽、焼けたアスファルトの匂い。潮風に混ざる遠くの笑い声と波の音。どこまでも青い空が広がり、何もかもが光に包まれていた。それに冬の海は、どこかさみしい。

 滝本のばあちゃんの言葉が心の中に浮かんで、また息がもれる。


 ……俺の心には、ほんとに大きな穴が空いてるのかもしれない。


 歩き出すと、目の前で小さな子供が転んだ。男の子はゆっくりと膝を擦りながら、控えめに泣き始めた。

 ぱっと見て、大きな怪我はなさそうだ。母親らしき人は、ちょうど俺の背中に隠れてしまって、こっちの様子にはまだ気づいていない。


 子供と目が合う。





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