第79話 鍋の中でグツグツするもの

 興味ありげに顔を上げたお姉ちゃんは、私が大学名を答えると、ふっと納得したように笑っている。


「あ~、あんたんとこのコーチの出身校か。さすが元日本代表、コネ持ってるね~」


 今日はお姉ちゃんの機嫌もいい。テーブルの端に置かれた、淡い桃色の光で点滅しているペンライトが、それを象徴している。


「で、どう? 調子は? 決勝リーグは応援行くからっ」


 お姉ちゃんの言葉に、私が何となく気の抜けた声で返事をすると、お母さんが推しのうちわを手にして声援を送ってきた。

 二人の笑い声を背中に聞きながら、私はリビングを後にする。リビングに漂っていた甘いポップコーンの香りが、鼻の奥に残る。



 バイトを終えて家に帰ると、中は真っ暗だった。鍵をかけたドアを背にして靴を脱ぎながら、そういえば今朝、ばーちゃんが『今日は友達とご飯を食べに行く』と言っていたことを思い出す。

 母さんとは、鎌倉に行ったきり会っていない。まだ国内にはいるとは聞いたけど。


 ダイニングキッチンに入って電気をつけると、テーブルの置き手紙が真っ先に目につく。ばーちゃんからだ。


 白い紙に書かれた文字に、相変わらず達筆だな……


 そう思いながらキッチンに向かい、手紙に書かれていた指示通り、カレーが入った鍋に火をかけた。

 けれども、身を起こしたその瞬間——


「……いてっ」


 頭が換気扇にぶつかった。

 思わず額を押さえ、軽く身をかがめる。なかなかの衝撃で、目尻に滲む鈍い痛みを、ふっと吐き出した息で追い払うようにした。

 落ち着きを取り戻し目線を鍋へ戻すと、火の赤い炎が、静かに鍋底を舐めている。何気なくそれを見つめているうちに、あの日の水族館での出来事がふと脳裏に浮かんできた。


 どうも、あのあとから何かがおかしい……。

 気持ちがふわついている。まるで水の中を漂うような、つかみどころのない感覚。それと、それに反するように胸の奥をちくりと刺す、ざわざわした違和感が拭えない。


 ……それに、

 何で俺は今日——コートに向かって声を?


 自分でも、理由が分からない。意識した記憶がない。ただ、言葉が勝手に口をついて出たような——そんな曖昧な感覚だけが残っている。


「らしくないな……」


 小さく呟いた声が、湯気の立ち上るキッチンで溶けて消える。誰に届くでもない言葉が、自分自身に跳ね返るような気がした。

 再びテーブルに置かれた手紙に視線を移して思った。

 皆んな忙しそうだな、と。

 バスケ部も……大会まであと少しか。

 そう思いつつ俺は、若干強めだった鍋の火を、弱火にした。

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