第75話 覚えててくれたこと.2
「え、クジラのデジタル展示、観れるの⁈ 期間限定で終わってたのに?」
ドーム型の水槽のような部屋の前で、一之瀬が期待に満ちた瞳を向けている。
「これ、観たかったんでしょ? このあと撤去されるらしいけど」
「覚えててくれたんだ……」
小さくつぶやいたその声と、弾けるような笑顔に、ふと胸の奥が温かくなったような気がした。
中に足を踏み入れた瞬間、全身が青い光に包まれて確信をした。
360度を囲むスクリーンには、深い海の世界が広がっていた。水の揺らぎに光の筋が舞い踊り、その中でクジラが
——俺は、ここに来たかったんだ。
その光景の中で、一之瀬の姿が一層鮮やかに映って見えた。
*
そこはまさに、海の中だった。
デジタルであることを忘れてしまう。ここに漂う空気、肌に届くような水の気配、音の深さ……すべてがあまりにリアルで、現実と非現実の境界を曖昧にしている。
静寂の中、優しく耳をくすぐる水の音と、遠くから聞こえてくるクジラの高く響いた鳴き声は
それはまるで、海そのものが語りかけているかのようで、心の奥にあった、漂うような空白が少しずつ形を持ち始めていく気がした。
——覚えててくれた。ここに来たかったってことを。
それだけで、私は十分だった。
それと、隣で童心に返ったような鼓動を感じつつ、鳴海君に早く平穏な日々が訪れますように、と願った。
本当は、それが私の望むところなのかもしれない。
ほんとは雨に音なんかないように——
隣にいる鳴海君の過去と今が重なって、記憶の中の彼と目の前の彼の区別があやふやになっていく。今、この瞬間が過去と同じものに思えてしまい、時間という概念そのものが幻に思えた。
そのとき、目の前に二匹のクジラがゆっくりと現れて、——これ、何だか私たちみたいと、ふと心が弾んだ。
一匹は、何だか
自分で、頬がほんのりと熱を持つのがわかって、ちょっとだけ、にやけてしまった。これまた、鳴海君が気づいていませんように、と心の中でそっと願う。
人は海から生まれた生き物なのだと、どこかで聞いたことがある。それにもし、
何度も生まれ変わり、別れることを繰り返しながら必然的に。
クジラたちが遠くへ行って、再び静けさが訪れる。
淡い光の筋だけが、私たちの間に揺らぎ続けていた。
家に帰ると、いつものようにリビングでくつろいでいる家族に「ただいま」と声をかけてから、そのまま自分の部屋へ向かった。
ドアを閉め、バッグを机に置き、勢いよくベッドに倒れ込む。天井を見上げると、今日の出来事が頭の中で、ぐるぐると思い出される。
スマホを手に取り、水族館のトンネルの水槽で撮った写真に目を留める。そこには水の光が揺れる中で、大きなお腹を見せたエイと、少しぎこちない鳴海君の横顔と、私。
微かに映る鳴海君の笑顔に、思わず口元が緩む。
スクロールして二年前の、同じ場所で撮った写真と比較をしてみると、そこにいる二人はポーズを決め、鳴海君はどこか自信たっぷりな表情をしている。その隣の私も、髪が短くて幼く見え、何だか恥ずかしく思う。
けれども、過去、今、の画面を行き来しながら、どうしても顔が、にたにたとしてしまう。
——憧れの、制服デートだった。
鳴海君は、パン屋さんでバイトを始めてから少しだけ変わった気がする。
中学生の頃みたいに、柔らかな波が立つ静かな海みたいな雰囲気を感じた。ところどころ口調も昔に戻ったりもする。
何となく……胸がとんと落ちる感覚がした。
好きな人と話すって、こんなにも楽しいものなのだということも。
鳴海君に『今日はありがとう』と、お礼のスタンプを送ると、すぐに返事が返ってきた。
画面に浮かぶ短い文字を見つめていると、じわりとその文字が胸にしみてきて、ようやく呪いのように自分を締めつけていたボールをつく音からも、完全に解き放たれた気がした。
そのとき、スマホが鳴る。
画面を見ると、杏からのメールだった。
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