第75話 覚えててくれたこと.2

「え、クジラのデジタル展示、観れるの⁈ 期間限定で終わってたのに?」


 ドーム型の水槽のような部屋の前で、一之瀬が期待に満ちた瞳を向けている。


「これ、観たかったんでしょ? このあと撤去されるらしいけど」

「覚えててくれたんだ……」


 小さくつぶやいたその声と、弾けるような笑顔に、ふと胸の奥が温かくなったような気がした。

 中に足を踏み入れた瞬間、全身が青い光に包まれて確信をした。

 360度を囲むスクリーンには、深い海の世界が広がっていた。水の揺らぎに光の筋が舞い踊り、その中でクジラが悠然ゆうぜんと泳いでいる。


 ——俺は、ここに来たかったんだ。


 その光景の中で、一之瀬の姿が一層鮮やかに映って見えた。



 そこはまさに、海の中だった。


 デジタルであることを忘れてしまう。ここに漂う空気、肌に届くような水の気配、音の深さ……すべてがあまりにリアルで、現実と非現実の境界を曖昧にしている。

 静寂の中、優しく耳をくすぐる水の音と、遠くから聞こえてくるクジラの高く響いた鳴き声はいにしえの歌のようで、純粋な感動が心に深い安らぎをもたらす。

 それはまるで、海そのものが語りかけているかのようで、心の奥にあった、漂うような空白が少しずつ形を持ち始めていく気がした。


 ——覚えててくれた。ここに来たかったってことを。

 それだけで、私は十分だった。

 それと、隣で童心に返ったような鼓動を感じつつ、鳴海君に早く平穏な日々が訪れますように、と願った。

 本当は、それが私の望むところなのかもしれない。


 ほんとは雨に音なんかないように——

 隣にいる鳴海君の過去と今が重なって、記憶の中の彼と目の前の彼の区別があやふやになっていく。今、この瞬間が過去と同じものに思えてしまい、時間という概念そのものが幻に思えた。


 そのとき、目の前に二匹のクジラがゆっくりと現れて、——これ、何だか私たちみたいと、ふと心が弾んだ。


 一匹は、何だか気怠けだるそうに泳いでいて、まるで海そのものに飽きてしまったみたいな仕草を見せている。そして後ろのもう一匹は、迷いなく懸命に追いかけている。その二匹は交わりそうで交わらない距離を保ちながら、静かな海を漂っていた。

 自分で、頬がほんのりと熱を持つのがわかって、ちょっとだけ、にやけてしまった。これまた、鳴海君が気づいていませんように、と心の中でそっと願う。

 人は海から生まれた生き物なのだと、どこかで聞いたことがある。それにもし、輪廻転生りんねてんせいというものがあるのだとしたら、何万年も前から私はこの海から生まれてきて、そして今こうして、再び鳴海君と巡り会っている。

 何度も生まれ変わり、別れることを繰り返しながら必然的に。

 クジラたちが遠くへ行って、再び静けさが訪れる。

 淡い光の筋だけが、私たちの間に揺らぎ続けていた。



 家に帰ると、いつものようにリビングでくつろいでいる家族に「ただいま」と声をかけてから、そのまま自分の部屋へ向かった。

 ドアを閉め、バッグを机に置き、勢いよくベッドに倒れ込む。天井を見上げると、今日の出来事が頭の中で、ぐるぐると思い出される。

 スマホを手に取り、水族館のトンネルの水槽で撮った写真に目を留める。そこには水の光が揺れる中で、大きなお腹を見せたエイと、少しぎこちない鳴海君の横顔と、私。

 微かに映る鳴海君の笑顔に、思わず口元が緩む。

 スクロールして二年前の、同じ場所で撮った写真と比較をしてみると、そこにいる二人はポーズを決め、鳴海君はどこか自信たっぷりな表情をしている。その隣の私も、髪が短くて幼く見え、何だか恥ずかしく思う。

 けれども、過去、今、の画面を行き来しながら、どうしても顔が、にたにたとしてしまう。


 ——憧れの、制服デートだった。


 鳴海君は、パン屋さんでバイトを始めてから少しだけ変わった気がする。

 中学生の頃みたいに、柔らかな波が立つ静かな海みたいな雰囲気を感じた。ところどころ口調も昔に戻ったりもする。


 何となく……胸がとんと落ちる感覚がした。

 好きな人と話すって、こんなにも楽しいものなのだということも。


 鳴海君に『今日はありがとう』と、お礼のスタンプを送ると、すぐに返事が返ってきた。

 画面に浮かぶ短い文字を見つめていると、じわりとその文字が胸にしみてきて、ようやく呪いのように自分を締めつけていたボールをつく音からも、完全に解き放たれた気がした。


 そのとき、スマホが鳴る。

 画面を見ると、杏からのメールだった。


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