第25話

「……死んだあとに再生するって、どんな気持ちなんだろう?」


 いつの間にか、手の届かない水槽の向こうにいる鳴海君へ問いかけていた。むずつく切なさに口が自然に開いた。


「俺は、ちょっとかわいそうだなって思うけど」


 ぽつりとこぼれたその声に、思わず顔を上げる。


「かわいそう?」

「……何度生まれ変わっても、この世界から逃れられないんじゃ、ずっと同じところに縛られたままでしょ? それなら俺はちょっと嫌かな」


 揺らめくその切なさを、水槽の中のクラゲたちが代弁しているようにも感じた。


「人って……たぶん無意識に——どこか遠くにある何かわからない、自由を追い求めてると思うから」


 ぼんやりとした口調だけれど、たしかに含まれた固い思い。それは彼が見ている景色の片鱗へんりんを、ほんの少しだけ私にも分けてくれた気がした。


 ——記憶が戻ったら、もうちょっと私に歩幅を合わせてくれるかな?


 そんな思いが心の中に浮かんでいた。

 水槽の前に佇む横顔は、クラゲたちが生みだした淡い光の世界に照らされて、どこかはかなげで、それでいていつもよりも大人びて見えた。その表情には、手を伸ばしても届かない時間を感じる。


 彼の瞳の奥を覗き込めたら、どんな景色が広がっているのだろう。


 鳴海君の、心の真ん中に空いた大きな穴が、その考えを加速させている——そうだとしたら、それが埋まれば、少しは立ち止まってくれるだろうか。


 せめて、私がいるこの場所に。



「……」


 ……黙ったまま野々原を見つめていると、おい、と思わず声をかけた。

 呆れたように言ったつもりだったけど、その声が思いのほか柔らかく耳についた。

 驚いたのは、クラゲに見惚れている間に、野々原が水槽の後ろに回り込んで、まるでクラゲに紛れるように下から浮かび上がってきたことではない。いや、厳密にはそれも少しは驚いたが、本当に驚いたのは別のことだった。


 ベニクラゲの話を知っていたこと。それと、それを見ることが俺の目的だったと、どこか察しているようにも見えたこと。そんな偶然が、この瞬間に重なるのが不思議でならなかった。


 滝本から『天然』とは聞いてはいたが、これもそれの類いなのだろうか。


 ……ただ、野々原はいったい何がしたかったんだ?


 今、慌てて手を振りながら、恥ずかしそうに何かを言い訳しようとする野々原を目にしながら、もう一つの疑問が浮かんだ。


 ——たしかに、父さんとの思い出のベニクラゲを見に来たかった……

 でも、何か引っかかる。

 ……俺は何か、大事なことを忘れているのでは?


 何かが、心の奥底でクラゲのようにふわつく。

 そしてそれは、このあと向かった先で気づくこととなる。



「え、クジラのデジタル展示、観れるの⁈ 期間限定で終わってたのに?」


 ドーム型の水槽のような部屋の前で、野々原が期待に満ちた瞳を向けている。


「これ、観たかったんでしょ? このあと撤去されるらしいけど」

「覚えててくれたんだ……」


 小さくこぼれたその声と、弾けるような笑顔に、ずっと心の内にしまっていた何かが、そっとほどけた気がした。

 それは中に足を踏み入れた瞬間、全身が青い光に包まれて確信をする。


 360度を囲むスクリーンには、深い海の世界が広がっていた。

 水の揺らぎに光の筋が舞い踊るその中を、悠然ゆうぜんと泳いでいるクジラたちの前で、無意識に心の中で呟いていた。


 ——俺は……ここに来たかったんだ。


 その光景の中で、野々原の姿が一層鮮やかに映って見えた。



 そこはまさに、海の中だった。


 デジタルであることを忘れてしまう。ここに漂う空気、肌に届くような水の気配、音の深さ……すべてがあまりにリアルで、現実と非現実の境界を曖昧にしている。

 静寂の中、優しく耳をくすぐる水の音と、遠くからクジラの声が聞こえてくる。高く響いた鳴き声はいにしえの歌のようで、純粋な感動が、心に深い安らぎをもたらす。

 それはまるで、海そのものが語りかけているみたいで、胸の内にあった空白が、少しずつ形を持ち始めていく気がした。


 ——覚えててくれた。ここに来たかったってことを。

 それだけで、私は十分だった。

 それと、隣で童心に返ったような鼓動を感じつつ、鳴海君に早く平穏な日々が訪れますように、と願った。


 本当は、それが私の望むところなのかもしれない。本当は、雨に音なんてないのと同じで——


 隣にいる鳴海君の過去と今が重なって、記憶の中の彼と目の前の彼の区別があやふやになっていく。今、この瞬間が過去と同じものに思えてしまい、時間という概念そのものが幻に思えた。


 そのとき、目の前に二匹のクジラがゆっくりと現れて、——これ、何だか私たちみたいと、ふと心が弾んだ。


 一匹は気怠けだるそうに泳いでいて、海そのものに飽きてしまった、そんな仕草を見せている。

 そして後ろのもう一匹は、迷いなく懸命に追いかけていて、その二匹は交わりそうで交わらない距離を保ちながら、静かな海を漂っていた。

 自分で、頬がほんのりと熱を持つのがわかって、ちょっとだけ、にやけてしまった。


 これまた、鳴海君が気づいていませんように、と心の中でそっと願う。


 人は海から生まれた生き物なのだと、どこかで聞いたことがある。それにもし、輪廻転生りんねてんせいというものがあるのだとしたら、何万年も前から私はこの海から生まれてきて、そして今こうして、再び鳴海君と巡り会っている。


 何度も生まれ変わり、別れることを繰り返しながら必然的に。

 クジラたちが遠くへ行って、再び静けさが訪れる。

 淡い光の筋だけが、私たちの間に揺らぎ続けていた。



 家に帰ると、いつものようにリビングでくつろいでいる家族に「ただいま」と声をかけてから、そのまま自分の部屋へ向かった。

 ドアを閉め、バッグを机に置き、勢いよくベッドに倒れ込む。天井を見上げると、今日の出来事が頭の中で、ぐるぐると思い出される。


 スマホを手に取り、水族館のトンネルの水槽で撮った写真に目を留める。そこには水の光が揺れる中で、大きなお腹を見せたエイと、少しぎこちない鳴海君の横顔と、私。


 微かに映る鳴海君の笑顔に、思わず口元が緩む。


 スクロールして二年前の、同じ場所で撮った写真と比較をしてみると、そこにいる二人はポーズを決め、鳴海君はどこか自信たっぷりな表情をしている。その隣の私も、髪が短くて幼く見え、何だか恥ずかしく思う。

 けれども、過去、今、の画面を行き来しながら、どうしても顔が、にたにたとしてしまう。


 ——憧れの、制服デートだった。


 鳴海君は、パン屋さんでバイトを始めてから少しだけ変わった気がする。

 中学生の頃みたいに、柔らかな波が立つ静かな海みたいな雰囲気を感じた。ところどころ口調も昔に戻ったりもする。


 何となく……胸がとんと落ちる感覚がした。

 好きな人と話すって、こんなにも楽しいものなのだということも。


 鳴海君に『今日はありがとう』と、お礼のスタンプを送ると、すぐに返事が返ってきた。

 画面に浮かぶ短い文字を見つめていると、じわりとその文字が胸にしみてきて、自分を締めつけていたボールをつく音の呪いも、ようやく解き放たれた気がした。


 そのとき、スマホが鳴る。

 画面を見ると、杏からのメールだった。

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