第71話 ベルツリー品川アクアマリンパーク.1

 夕暮れの街路を駆けてくる小さな影。遠目でもすぐにわかった。肩を上下させながら懸命に走る姿がどこか不器用で、妙に一之瀬らしいと思った。


「……」


 すれ違いざまに鞄を人の肩にぶつけてしまった一之瀬は、慌てて謝っている。


 ……学校の鞄は品川駅で預けたほうがよさそうだな。水族館で振り回されたら、たまったものじゃない。


 ただ、そう思いながらも、視線は自然と引き寄せられていた。夕日の中で揺れる髪や、頬の赤みが、照れているのか、それとも夕日がそう見せているのか。その全身からにじむ必死さに、俺の目は自然と奪われていた。


「ごめんねっ、待たせちゃって」


 さりげなく時間を確認すると、まだ五分前だった。

 一之瀬は目の前で足を止め、大きく息を吸い込んでいる。肩で息をしながらも小さく笑うその表情に、胸の中で絡まっていた思考が、ふっとほどけるのを感じた。


「コーチの話が最後、長くなっちゃってっ」


 必死に言葉を探しながら弁解しようとする様子に思う。


 ……気づけば俺は、知らず知らず一之瀬のまっすぐな姿に励まされているのかもしれない。


 それに、


「……ああ、俺は大丈夫だから」


 と言うと、一之瀬のぱっと柔らいだ笑みが、ふわりと浮かび、鈴木との関係がこじれずに済んだこともあるけど、それ以上に約束を果たせることができてよかった。


『クジラのデジタル展示に行きたい……』


 前に一之瀬はそう話していた。理由は謎だけど、どうしても行きたそうなあの表情が強烈で、妙に頭にこびりついて離れないでいた。

 俺は一之瀬の息が整ってから声をかける。


「……では、いきますか」



 え、すごいっ。どれもこれも紅葉っ。独り言みたいに呟きながら、入口からエントランスまでの道のりを、私は手当たり次第にスマホのカメラを向ける。カシャというシャッター音が、くぐもった静かな雰囲気の館内に響く。


「……」


 隣で苦笑いしている鳴海君を肌で感じつつも、期間限定イベントのデジタルアートに目が離せない。まるで日本庭園のように紅葉が舞い、色づいたもみじが風に揺れて壁を滑り落ちていく。足元を歩くと水面のように波紋が広がる。

  当然のことのように、すかさず床もパシャリとする。


 鳴海君はというと……


 少し笑っているようにも見えた。

 楽しんでくれていたら嬉しいなと、心のふちに思いながら、どこか現実から切り離された薄暗い館内を進む。

 光と水の揺らめきに包まれた足元は、まるで夜空の星々が水面に映る湖に迷い込んだみたいで……

 私はおとぎ話の少女になった気分だった。


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