第21話

 すると急に前に出てきた鈴木さんが、鳴海君に向かって心配そうに声を上げる。


「鳴海君、無理しないで!」


 普段見せないほどの真剣な表情で、顔をじっと見つめ唇を噛みしめている。


「少し休んだほうがいいかも。無理して動かないで。あっちに腰を下ろせる場所があるから」


 そう言って手を差し出し、そのまま静かに立ち止まる。その視線は彼に向けられたままで、まるで他の何も見えていないようだった。



---



「え、なに? 行かなかったの?」


 結衣が驚いたように問いかけてきたのは、体育館の片隅だった。

 今日の体育は隣のクラスとの合同授業で、クラスメイトたちがそれぞれバドミントンの試合を楽しんでいる。私たちは、広い体育館の床に並んで座り、試合を眺めていた。

 コートの真ん中では、鳴海君と滝本君が対戦している。白熱したラリーが続くたびに、見守る周りの女子たちの歓声の声が上がる。

 鳴海君の元気そうな姿に、私は安堵していた。


 ……そう、結局、昨日は水族館に行けなかった。

 鳴海君の体調を気遣って、予定を取りやめたのだ。


 何げなく視界の端に鈴木さんの姿が映り込む。きっと、鳴海君のいつも通りの様子に、ほっと胸をなでおろしている──そんな気がした。


「二人とも、ガチだね」


 くすりと笑う結衣に、ひじで軽く突かれた。


「……そうだね」


 と、結衣に合わせて笑うけど、何かモヤモヤしたものはそのままだ。


「あの二人、何か因縁でもあるのかな?」


 結衣の言葉に、ふと考えが浮かぶ。


 たしかに、いつもの二人ならもっと気楽に、適当に楽しみそうだ——


 そんなことを思っていると、滝本君がシャトルを拾い上げながら、わざとらしく大きな声で文句を言い始めた。


「おい、純っ! そんなに本気でくるなっての!」


 滝本君は汗だくで、肩を上下させながら鳴海君を見ている。対した鳴海君も似たような感じだった。息を切らしながら汗をにじませる表情からは、負けん気が浮かんでいた。


「……知らん。体が勝手に動く。それより滝本、お前こそ往生際が悪いぞ」


 二人のやり取りに、周囲からくすくすと笑い声が漏れ、場が和やかな空気に包まれる。その雰囲気に少しほっとしていると、私の視線は再び鈴木さんの方へと向かう。

 何かに勘づいたのか、結衣がもう一度話しかけてきた。


「鈴木さん、中学のときバドミントン部だったみたいだよ。しかもインターハイでてたって」

「そうなんだ……」


 どうりで、さっきの試合、あんなにキレッキレだったんだと妙に納得できた。でも、

「高校ではバトやらなかったんだ?」

「親が厳しいとか言ってたかな。勉強を優先してるんじゃない? どこかの社長令嬢で、お嬢様育ちだって話も聞いたことあるし」


 その話にも、妙に納得してしまった。私も入学当初、バスケ部に入るかどうか悩んでいたからだ。

 この学校を選んだのは、お姉ちゃんの勧めもあったけれど、進学校でありながらバスケで全国を目指せること、それと自宅から近いことが決め手だった。


 勉強と部活の両立は大変だろうと覚悟していたところ、同じクラスの結衣に『一緒にやろうよ!』と誘われた勢いで入部してしまった。入学した日に、初めて顔を合わせた瞬間だった。


 どうして私を誘ってくれたんだろう?


 都外の県に住んでいたから、私のことなんて知るはずもなかったはずなのに、両親の転勤で目黒区に引っ越してきたばかりの結衣は、初対面の私に声をかけてくれた。

 そのとき、結衣のささやきが小さく耳元に届く。


「ねえ、気をつけなよ」


 驚いて振り返ると、結衣は鈴木さんの方をちらりと見ながら続けた。


「鈴木さん……お祭りのとき、桃と鳴海君が二人で歩いてたの、根に持ってるらしいから」

「え……」


 まさかそんなことを気にしているのだとはとは思っていなかった。


「しかも……プライド高めっていう噂」


 結衣が半分冗談めかして言い、口元に薄く笑みを浮かべた。

 その何気ない一言に、私は複雑な思いを抱えたまま、再び鳴海君たちの試合に目を戻した。



 ……滝本のやつ、ムキになりやがって。


 鈍い痛みが体に残るのを感じながら、バイト先のパン屋で店じまいの準備を進めていた。疲れた指先にパンを並べる感覚が重なる中、無心に片付けを続けていると、友希さんの声がした。


「今日もお疲れさま、純君」

「お疲れさまです」


 返事をしながら、パン棚の整理を続けた。手際を眺めていた友希さんが、どこか満足げに微笑んで、しばらくすると、静かな店じまいの時間に和らぐような声で尋ねてきた。


「そういえば、純君はどうしてバイト始めたの?」


 その問いに、俺は一瞬考え込み、少し間を置くようにして答えた。


「まあ……自分で買いたい物があるっていうのがひとつ。で、あと……」


 少し口ごもっていたら苦笑してしまう。


「あと、将来、社会に適応できるか心配で。俺、滝本と違ってコミュ障なんで……」


 友希さんは小さく首をかしげて微笑んでいる。そのあと、ほんの少し眉を寄せて、

「友也は異常ね」

 と、吐き捨てるように言った。冗談めいてはいるけど。


「……中学のときは、あんなんじゃなかったんだけどね。今は、純君と仲良くしてるのが不思議なくらいだけど」


 まあ、たしかに、滝本のような社交的な性格のやつが、コミュ障の俺にわざわざ親しくするのも、考えてみれば少し不思議だった。

 その思いをふと押し流すように、友希さんの言葉が心に染み込んできた。


「そんなに急がなくてもいいんじゃない? まだ先は長いんだからっ」



 店を出てすぐに考えた。


『そんなに急がなくてもいいんじゃない?』


 何だかその言葉に、ふと心の中で反発が生まれていた。曖昧な違和感が、ちょっとしたため息を押し出す。


 ……ほんとに、そんな時間はあるのか?

 世界は大恐慌へと向かい、終末に向かっている気がするのは……俺だけだろうか?


 外はすでに夕暮れが近づいている。

 顔を上げると、少し離れた場所に人影が浮かんで見えた。鈴木だ。じっと立ち尽くしているのが分かる。

 さっき店にパンを買いに来てから、かなりの時間が経っている。しかも、この冷え込む季節の夕暮れに、一人で待たせてしまっていたのかと思うと、軽い罪悪感が胸の奥に灯った。


「あ、鳴海君、お疲れさまっ」


 それと同時に、その健気けなげに待つ姿には言い表し難い重たさを感じるのも事実だった。昨日の頭痛の件もある。そのせいか、何だか鈴木の視線がいつも以上にのしかかってくるような気がした。


「……鈴木。あのさ……」


 それでも——いや、だからこそなのかもしれない。鈴木が自分に気があることには、さすがの俺も薄々気づいている。

 早くきちんと気持ちを伝えるべきだろう。鈴木のためにも。曖昧に接し続けるのは、お互にとってもよくない。

 以前、友希さんに言われた言葉が、心の中で静かに反響する。


『中途半端な態度は女の子を傷つけるだけだよ』


 何度も頭に浮かんでは消えていくその言葉。

 いっそ口に出して、答えを告げるべきだ。でも、唇は動いてはくれずに何も言えずにいる。

 不思議と足だけが前に進む。

 気持ちと体が噛み合わないもどかしさを感じながら、ただ、目の前の景色だけが変わっていく。

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