第56話 いっそ私が⋯.1

 祐天寺駅へ向かう道を、三人は黙って歩いていた。

 まだ夕方の名残を感じる時刻ではあったものの、空はすっかり深い藍色に染まり、街灯の明かりが通りを薄く浮かび上がらせていた。

 ぼんやりと季節の変わり目を感じる。木々の間を抜ける風が冷たく、乾いた落ち葉が足元でかさりと鳴る。

 駅に着くと、鈴木は「……じゃあ」と短く言い残し、何か言う隙も与えず足早に去っていった。

 一之瀬と取り残されるような形になり、一瞬動揺したが、そのあとは不思議と気まずい空気を、お互いどうにかしようとするわけでもなく電車に乗り込み、中目黒駅に着いてからも、ごく当たり前のように二人並んで帰った。

 夜道は、遊歩道に並ぶ街灯にぼんやりと照らされ、二人の影を淡く伸ばしている。静かな時間が流れていた。

 川沿いに静かに流れる水の音と、遠くの方から微かに聞こえる、車のエンジン音だけが響いている。



「ただいま」


 家に足を踏み入れると、室内は真っ暗だった。人の気配がない。誰もいないみたいだ。

 廊下のスイッチを入れ、明るさと一緒に、ほんの少しだけ暖かみ広がると、開けっ放しのドアが目に付いた。思わずお姉ちゃんの部屋の前で足が止まる。何気なく、暗がりに薄っすらと映る机の上が気になった。

 部屋の電気をつけると、机の上には分厚い専門書がいくつも積まれていた。理学療法や心理学、トレーナーに関するものがずらりと並び、アスリートの怪我や心のケアに関するタイトルが目に飛び込んでくる。

 その光景に、お姉ちゃんが黙々と勉強している姿が目に浮かび、ふと、私のバスケのスランプのことも、もしかしたら少しは気にかけてくれているのかもしれない……そんな思いが、頭の片隅に残った。


 すると、

「……何?」


 突然、声がして、驚いて顔を上げると「覗き~? 趣味悪いわよ」と、からかうように言い放つお姉ちゃんが立っていた。


「その格好、どうしたの?」


 普段とは見違えるほどに整った出で立ちに思わず訊くと「短期インターンシップよ。会社が私の希望を聞いてくれてね」と、微笑むお姉ちゃんの顔はどこか誇らしげに見えた。


 お姉ちゃんは大学時代、怪我でバスケを諦めざるをえなくなった経験から、来年の春からアスリートを支える仕事に就く予定だった。

 いつも以上に大人びて見える姿に、思わず頭に浮かんでいたある疑問が、そのまま言葉になってしまう。


「ねえ、お姉ちゃん……記憶喪失って、どうしたら記憶が戻るのかな?」

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