第37話 記憶喪失.3

 そのまま結衣は、私の目をじっと見つめたまま「桃が逃げるのなんて、もう見たくないよ」と、訴えかけるように吐き出した。でも、その言葉のあとすぐに、結衣はにんまりと笑って、突然立ち上がったと思ったら、私の背後に回り込んで、

「ほら、桃、ここに座り直して」

 と言って、私の肩に両手を乗せて軽く押しながら、席を少し引き、「なんてね」と、ちょっぴり照れ臭そうに笑った。

 あまりにも不自然な一連の動きに、私は思わず吹き出してしまう。


「もう、何なの? 急に。びっくりしたって」


 と、笑いながら言うと、結衣も笑いながら「いや、桃が元気ないから、ちょっとでも励まそうと思って」と、言う。

 結衣はもう一度私の向かいに座り直し、

「私が桃を引っ張る役目だから」

 と、優しい声で微笑んだ。


「それに、バスケも頑張るよ! 桃の力がないと全国行けないんだからね」

「…うん、ありがとう」


 言いたいことは伝わってきた。私は、その言葉に心から感謝した。

 さりげない気遣いや、ちょっとした夢の冗談に助けられて、少しだけ前向きになれた気がする。



 家に帰ってからは、部屋にこもってスマホに搭載されたAIと、会話するように壁打ちなるものをしていた。

 始めは、記憶喪失について色々と質問していたけど、徐々に会話はヒートアップし、恋愛相談みたいになっていた。

 AIと会話していくうちに気づいたのだ。

 記憶がないということは、鳴海君にとって私は初対面ということになる。そう考えると、今日まで自分のしてきた行動が恥ずかしくなる。水を吹きかけた上に、お祭りでの押し倒し、そして謎の号泣……

 後悔ばかりでたじろいでいると、AIが話し始めた、と思ったそのとき、同じタイミングで部屋のドアが開いた。


『緊張する初デートで、会話になりやすい話題五つをご紹介します。初デートで話しやすいのはこの話題です! 一、 第一印象について話す。二、 好きな食べ物や嫌いな食べ物。三、好きな本やテレビ。四、休日の過ごし方。五、出身地や子ども時代に流行った遊び』


 回答が終わり、静けさと一緒に、ドン引いているお姉ちゃんの視線が痛い。うわあ、恋愛経験なさそ~、と間違いなく私はさげすまれている。


「何か、ブツブツうるさいと思ったら、あんたいつもそんなことやってんの?」

「そんなことよりノックしてよねっ」


 お姉ちゃんの、ばっちりとお高くとまっているようなメイクに、マウントを取られているような気になった。


「ほんと、ばかだね」

「もー、うるさいっ」


 私は追い返すようにして、ドアを閉めた。

 部屋の中が静かになり、鳴海君のことを考える。

 今思い返すと、常に少し戸惑ったような表情で、不自然だったようにも思える。いつも通りの明るさを失い、どこか遠くを見ているような眼差しだった。

 私は、何かヘンテコな生物か何かだと思われているのかと思っていたけど。

 やっぱり、確かめることが必要だ。

 まずは事実確認。

 よし、明日、学校で頑張ろう。

 深まった夜は、少しの肌寒くなってきた。静けさが心を包む。ベッドに横になり、目を閉じると、鳴海君の顔が浮かんでは消えた。

 そして、ふんわりと鳴海君との初めて会った日を、そうか、と昨日のことのように思い出す。

 中学二年の二学期。

 鳴海君は、私と同じクラスに転校生として現れたのだ——。

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